2話 殺人鬼が蔓延る世界

頬を伝う熱に、意識が跳ねた。  汗か、あるいは涙か。濡れた手で顔を拭い、鞍月蒼(くらづき あおい)は荒い呼吸を整えた。


(……また、あの夢だ)


 十年前、母が殺されたあの日から。  夢はいつも、陽光が眩しい遊園地の場面から始まる。そして決まって、母の命が奪われる瞬間に幕を下ろす。  呪いのような悪夢。だが、そのおかげで犯人の特徴だけは、脳髄に深く刻み込まれていた。


 ――右頬に、鳥の足跡のような痣(あざ)がある男。


 蒼は人を見る時、まず右頬を確認する。十年間、ただの一度もその痣を持つ男に出会ったことはない。 もし、出会ってしまったら。自分は、そいつの命を奪うのだろうか。


(俺も、あの男と同じ怪物になるのか……?)


 最近、夢にはもう一つのパターンが加わっていた。泥濘の中に立ち、血まみれの女を見下ろしている自分。 この狂った世界では、被害者でい続けることさえ、いつか限界が来るのではないか。そんな予感が蒼を蝕んでいた。


 重い足取りで洗面所へ向かう。


「父さん、おはよう」  


鏡の前で顔を洗っていた父は、視線すら合わせず、一言も発せずに去っていった。  冷たい水で顔を洗う。鏡に映るのは、生気を失った青白い肌と、濁った深緑の瞳。寝癖のついた黒髪を整え、蒼は朝食を作り始めた。    トーストとハムエッグ。この静かな調理の時間だけが、唯一の救いだった。  テーブルに並べても、父は新聞から目を離さない。紙面を埋め尽くすのは、溢れかえる殺人事件のニュースばかり。会話はなくとも、同じ飯を食う。それが父との細い、唯一の繋がりだと信じるしかなかった。


「今日、母さんの墓参りに行くけど……父さんも行く?」 「いいや。夕方にする。お前一人で行け」


 無機質な声。それは『お前と同じ空気を吸いたくない』という拒絶に聞こえた。


 外に出ると、六月の晴天とは裏腹に、生ぬるい風が全身を舐めていった。


「あら、蒼くん。麻子さんの命日ね」  


近所の川田さんが愛犬のテンを連れて声をかけてくれた。テンが尻尾を千切れんばかりに振って懐いてくる。動物の温もりだけが、ささくれ立った心を少しだけ解かしてくれた。


 バス停へ向かうと、そこには見覚えのある、目を引くほどの美少女が立っていた。  同級生の柏木朱音(かしわぎ あかね)。 「あれ、二組の柏木だよね」 「そうだけど、あんた誰?」  淑やかな外見に似合わない、棘のある口調。


「一年の時、同じクラスだった鞍月蒼です」


「ああ、あの窓際で頬杖ついてた子! ごめん、不審者かと思っちゃった」


 彼女もまた、アジサイ霊園へ向かうという。  揺れるバスの中、彼女が差し出した珈琲飴を口に含みながら、二人は言葉を交わした。


「蒼くんも、家族を亡くしてるんだ」


「……他殺だよ。十年前、俺の目の前で」


「そう……」  


彼女の視線が窓の外へ流れる。 「私もだよ。両親と姉を……今は一人。おばさんに引き取られてるけどね」


 この町で一番大きなアジサイ霊園。 整然と並ぶ墓石の山。その下にあるのは、病死よりも圧倒的に、他殺による亡骸の方が多い。 法も秩序も、暴力の雨に流されている。蒼は十を超える知人の墓に線香をあげ、最後に母の墓前で手を合わせた。


「もうこんな時間。私、用事があるから先に行くね!」  


嵐のように去っていく柏木の背中を見送った後、蒼は一人、バス停のベンチで菓子パンを広げた。


 その時だった。 背後から、鉄の爪で掴まれたような衝撃が肩に走った。


「ッ!?」  


振り向いた視界に飛び込んできたのは、漆黒の布を全身に纏った異様な人影。  逃げようとしたが、足をもつれさせ倒れ込む。踏みつけられた菓子パンが潰れる嫌な音がした。  男が蒼の胸ぐらを掴み上げ、耳元で低く、不吉な言語を吐く。


「I find you(見つけたぞ)」


 首筋に押し付けられたのは、冷たい銃口。


(銃……? なんで……?)  


白昼堂々、霊園の入り口で。 このまま自分は、母と同じ場所へ行くのか。痛みはあるのか。死んだら母さんに会えるのか。思考が濁流のように溢れる。


「やめろ……ッ!」


死に物狂いで銃口を逸らそうとするが、男の腕は岩のように動かない。隙を突いて男の腕からすり抜け、走り出した。


 ――乾いた銃声が一つ。 足先数センチのアスファルトが弾け、火花が散った。


「You cannot escape.」


 男がゆっくりと歩み寄る。フードの奥、歪んだ口元が嘲笑を浮かべた。 死の予感に蒼が目を閉じた、その時。


 ――バサバサッ! と激しい羽音が空を切り裂いた。


「ぎあああああああああッ!?」


 突如、数羽の鴉(カラス)が男の顔面に襲いかかった。容赦なく眼球を突き、肉を削ぐ。 地面に飛び散る鮮血。 「チッ!」  男は顔を血に染めながら短く舌打ちすると、逃げるように後退した――直後。


 掻き消えるように、男の姿が視界から消え失せた。 まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。


「……夢、じゃない」


 震える指先が、空から落ちてきた一枚の「黒い羽」を拾い上げる。 逃げた男の血が付着した、鴉の羽。 秩序が崩壊し、魔法のような不条理さえもが現実を侵食し始めている。    蒼はその羽を握りしめ、逃げるように家へと走り出した。  十年前の復讐、自分のなかの殺人者、そして消えた襲撃者。  世界が、急速に黒く染まり始めていた。

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浄罪師【現代編】 弓月 @yuzuki_yunan

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