1話:境界線の向こう側

窓から差し込む午後の陽光が、埃の舞う教室の机に淡い境界線を描いている。  壁の時計は午後三時半。朝からの雨が嘘のように上がり、世界は平穏を取り戻したかのように見えた。だが、その輝きは長くは続かない。あと一時間半もすれば、この街は「死」が隣り合わせの戦場へと変貌する。


「では、全員気をつけて帰れよ。寄り道は……命取りだ。いいな」


 担任の山下先生の言葉は、単なる生活指導ではない。それは、生存のための警告だ。

ホームルームが終わると、生徒たちは逃げるように教室を後にする。そんな喧騒の中、鞍月蒼は、ゆっくりと椅子を引いた。


「蒼、明日空いてるか? 暇なら付き合ってくれよ」


 背後から声をかけたのは、影山伊吹だ。緑がかった銀髪という、校則を嘲笑うかのような容姿。蒼にはそれが、どこか不吉な「老い」を象徴する煤けた白髪に見える。


「……悪い、明日は行かなきゃいけない場所があるんだ」


母、麻子の十周忌。  七歳のあの夏、目の前で何者かに奪われた母の命。犯人の顔は思い出せない。ただ、あの男の右頬に刻まれた「鳥の足跡」のような痣だけが、十年間、蒼の脳裏にこびりついて離れない。


「ああ、そうだったな。命日か……うっかりしてた、ごめん」


「いいよ。日曜日なら、空いてるけど」


「マジか! じゃあ日曜、駅前な!」


 伊吹は現金な奴だ。蒼の鞄をひったくるように掴むと、そのまま廊下へと駆け出していく。


「おい、伊吹! 鞄返せよ!」


蒼は慌てて後を追う。下駄箱で追いつくと、伊吹は履くのが面倒そうな、茶色いワークブーツの紐に手こずっていた。


「くそっ、この靴さえなけりゃ逃げ切れたのに」

「当たり前だ。……ほら、返せよ」  


蒼は、イソギンチャクのラバーキーホルダーが揺れる鞄を取り返した。深海生物の奇妙な静けさを、蒼は愛している。危険な地上と切り離された、冷たく深い海の底に憧れていた。


「で、日曜日はどこに行くんだ?」


「……『鴉ノ神社』って、知ってるか?」


 その名を聞いた瞬間、蒼の指先がわずかに冷えた。

「聞いたことはあるけど。……なんで神社?」


「俺の妹、千恵がさ……来週月曜、友達と山にキャンプに行くってきかないんだ」


蒼の表情が凍りついた。

「……正気か? 夜の外で過ごすなんて、自殺するのと変わらないぞ。止めろ、絶対に」

「止めたさ! 家族全員でな! でもあいつ、一度決めたら折れないだろ? だから、せめて災難除けで有名な神社で祈るくらいしか……」


年間、数万人が「他殺」で消えていく国。警察はもはや死体安置所の管理団体と化し、午後五時を過ぎれば法は消滅する。生物濃縮のように、人々の心に溜まった「悪意の毒」が、夜の帳と共に溢れ出すのだ。


「祈る暇があるなら、あいつを部屋に閉じ込めてでも守れよ。……母さんみたいに、なってからじゃ遅いんだ」


 蒼の言葉に、伊吹は黙り込み、それから蒼の肩を力なく叩いた。


「……九時。お前の家の前な」


 一人になった帰り道。水たまりが西日を反射し、蒼の瞳を刺す。  築十五年の鞍月家。玄関を開けると、そこには外の世界から遮断された、重苦しい「聖域」があった。  

蒼は真っ先に仏壇の前に座り、線香を灯す。


「母さん……今日も、無事に帰れました」


 一方通行の会話。仕事に追われ、蒼を避けるように帰宅する父・浩哉との間には、もう言葉など存在しない。  リビングのテーブルには、ラップが汗をかいた冷え切ったオムライス。九時半を過ぎ、遠くで送迎バスのエンジン音が響く。ようやく帰宅した父は、蒼の顔を見ることもなく、「ああ」とだけ呟いて寝室へ消えた。


(……お前が殺したんだ)  


父の背中がそう語っているように感じる。  あの夏の日。自分が「メリーゴーランドに乗りたい」とわがままを言わなければ。五時の鐘が鳴る前に帰っていれば。


 ベッドに入り、目を閉じると、記憶の断片が濁流となって押し寄せる。


 ――午後五時の遊園地。  

――鳴り止まない鴉の羽音。

――暗闇から響く「みーつけた」という男の声。  

――そして、母の脇腹に触れた瞬間の、粘りつくような『紅』の感触。


「ねぇ、起きてよ……もう、わがままなんて言わないから……」


 夢の中で、少年だった蒼は永遠に謝り続けている。だが、冷たくなっていく母が、その問いに答えることは二度となかった。

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