第9話

「なに?」


「あの、昼間吹いてくれた、その、サックス? 音楽ってやつを聞かせてほしいな」


 無理したフラウの笑顔が心に痛かった。


「いいよ」


 俺はサックスを抱えてスッと立ち上がった。


「なんの曲にしようか」


「曲?」


「あ、えーと、音楽の種類」


「なんでもいい。おまかせで」


 サックスをやっていると言うと、なんでもいいから吹いて見せてよと言われることがあった。俺はそれをすごく嫌っていた。サックスの天才に気安く演奏をせがむなよ、と偉そうに思うことも正直あった。


 今はそれとはまるで違った。こんなに他人のために吹きたいと思ったことはなかった。フラウの心に寄り添う曲を、フラウの恐怖を払拭できる曲を心を込めて吹きたいと考えた。


 俺は『イン・ア・センチメンタル・ムード』を選んだ。フラウと俺との出会いが素晴らしいものになるように優しい音を出すよう心がけた。フラウの心を締め付けていた恐怖という呪縛が解けていくのがわかった。俺は一層の気持ちを込めて演奏を続けた。フラウの体の震えは徐々に消えていった。


 最後まで吹き終えると俺は思いついたことをそのままフラウに伝えた。


「俺も付いてっていいかな?」


「え?」


 フラウの表情から恐怖の色はすっかり薄れていた。


「俺、行くところないし、怪我したフラウが心配だし」


 フラウの顔が明るくなった。そして優しい顔で笑った。


「ありがとう」


 初めて出会った時、ボランゴと対峙していた時とはまるで別人のように柔らかな笑顔をしていた。その顔に見つめられてお礼を言われて、俺は内心ドキドキしていた。それを隠すようにそそくさと草のベッドへ移動した。


「そうと決まれば早く寝よう。しっかり休んで明日に備えないとね」


「そうね」


 フラウは自分のベッドへと戻っていった。俺はフラウに背を向ける形で横向きにゴロンと寝そべった。しばらくしてフラウの寝息がスヤスヤと聞こえ始めた。


 こんなに死が間近にあるアウトドアは初めてだった。よくこんな状況で眠れるもんだと、フラウの逞しさに感心すると同時に自分の弱さに情けなさを感じた。元いた世界に戻る日は来るのだろうか。この世界で生きていくならもっと強くならなければ。寝ながら首だけ起こして外を見た。ボランゴの死体が強烈な匂いを放って横たわっていた。昼間、ボランゴに襲われた時の恐怖が蘇って手が震えた。その手の震えを拳を握りしめて抑えた。こいつには楽勝できるぐらい強くならなくては。フラウのように油断しなければ一撃で倒せるぐらい強くならなくては。心を決めると急に眠気が襲ってきた。まるで気絶するかのように俺はスコンと眠りに落ちた。

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