今夜はゴリラが降るそうです

猫小路葵

今夜はゴリラが降るそうです

<続いてはお天気です>


 リビングダイニングに置いたテレビで気象予報士が言った。外はさっきから雷が鳴っている。だんだん勢いづいて、空がメリメリと音を立て始めた。


「ママー。これはなんの絵だと思う?」

「新幹線」

「せいかい!」


 私は「やった!」とガッツポーズをとってみせた。

 三歳の息子、颯太そうたはダイニングテーブルでおとなしくお絵描きをしてくれている。ときどき窓を振り向いて雷の音を気にしているようだが、この子は赤ちゃんのときから雷を怖がらない。私もそうだった。雷が鳴ると窓に張り付き、空に走る稲妻を、飽きずにいつまでも眺めているような子供だった。颯太は私に似たのかもしれない。


<現在、日本列島は上空に強い寒気が流れ込み、大気の状態が非常に不安定になっています>


 また鳴った。のんきな颯太は鼻歌まじりにクレヨンを動かしている。その隙に私はチャチャッと夕飯の支度をしてしまおう。夫は泊りの出張なので、今夜は颯太と二人、チャーハンだけでいいのだ。夫の出張は、正直ちょっとありがたかった。誰かのために“ちゃんとする”ことから、一晩だけ解放される気がした。今夜は夫の世話を焼かなくていい。早く用事を済ませて、そのあとの『ひとり時間』を思う存分楽しむんだ。


<今夜にかけて、狭い範囲で一気に雨雲が発達する、いわゆる『ゲリラ豪雨』――>


 ここで大きな雷鳴。耳をつんざく轟音がテレビの音を掻き消した。すると颯太が叫んだ。


「ゴリラ!?」


 クレヨンを握りしめ、この世の一大事を颯太は私に知らせた。


「ママ! 今日の夜、ゴリラが降るって!」


 私は「そうちゃん、ちがうよ。『ゲリラ豪雨』だよ」と訂正したが、颯太はもう聞いていなかった。彼は急いで椅子からおりると、冷蔵庫の野菜室から、保存用の袋に入れた黄色いバナナを取り出した。


「ママ、これゴリラさんにあげてもいい?」

「え」

「サンタさんにはお茶とクッキー置いたでしょ。ゴリラさんにもバナナあげなきゃ!」


 颯太の脳内では、『ゴリラが降る』というのは、トナカイのそりで飛来するサンタクロースと似たようなイメージであるらしい。私はほんの少し迷ったけれど、まあいいかと思った。今日のところは『ゴリラ迎雨』で構わない。そのうち正解を教えよう。今は颯太の想像力を大事にしなくちゃ。


「いいよ」


 私が頷くと、颯太は「よし!」とまた椅子に戻ってクレヨンを握った。と思ったらまた席を立ち、『どうぶつずかん』を持ってきた。図鑑の『ゴリラ』のページを開くと、颯太は新しい画用紙に意気揚々とゴリラの絵を描き始めた。


“ゴリラさんへ がんばってね そうた”


 絵の横に、彼はそう書き添えた。

 この絵は颯太が寝てから回収して、見えないところに仕舞っておこう。バナナも食べて、皮だけ置いておかないとね。


<――このような雲の下では、激しい雨とともに、ダウンバーストと呼ばれる強烈な下降気流が発生し、空から叩きつけられるような衝撃が加わることもあります。今夜はまさに、天から何かが降ってきてもおかしくないような、荒れた空模様となりそうです>


 テレビは引き続き、ゲリラ豪雨への警戒を呼び掛けていた。




 チャーハンと即席みそ汁の夕飯を食べ終えて、お風呂も入って歯磨きもした。いいペースである。あとは颯太を寝かせるだけだが、そのあとの大事なミッション、『絵を回収すること』『バナナを食べること』を忘れてはならない。それが終われば、自由時間だ。

 颯太はバナナをのせたお皿と、ゴリラさんの絵をベランダに置いた。歓迎の準備をしているとき、ひんやりした風がベランダを吹き抜けた。ゲリラ豪雨は予報通りやってくるのだろう。


 布団に入った颯太は、声をひそめて尋ねた。

「ママ、ゴリラさん、今どこ飛んでるかなあ」

 まるでサンタのそりのように言う颯太。私も調子を合わせて答えてみる。


「そうだねえ。アフリカを出発したばかりかな」

「え~、まにあうの~?」

「雲の上を飛んでくるからすぐだよ。信号も曲がり角もないし」


 私は適当なことを言っているが、颯太は「そっか!」と納得してくれた。

 そのとき外で雨の音がした。大粒の雨滴があっという間にそこらじゅう打ち付けて、部屋の中は盛大な雨音でいっぱいになった。颯太の絵、大丈夫かなと少し心配になった。ベランダに屋根はあるものの、横殴りで降られたら、きっと濡れてしまう。


 そのときだった。

 雨とは異なる、重量感のある大きな音がベランダに着地したのを聞いた。コンクリートが「ズンッ」と沈み込むような、重い振動。何かが動く気配もした。

 雨音に邪魔されながら耳を澄ます。颯太が「ママ?」と言いかけたのを“しー”と黙らせた。


 強盗。


 その二文字が稲光とともに頭に落ちた。心臓が凍った。颯太を守らなければ。それだけを考えた。

 私はそろりと布団から出て、夫のゴルフクラブを手に、カーテンの隙間からベランダを覗いた。滝のような豪雨と稲光の中に、それはいた。黒くて巨大な塊。雨雲そのものが凝縮されたような、筋骨隆々の――


 ゴリラが。


「ゴリラさんだあ!」


 気づかないうちに颯太が私の足元にいた。私が何か言う暇もなく、颯太はカーテンをジャッと開け、掃き出し窓を解錠して飛び出した。


「颯太!」


 颯太がゴリラに飛びついた。ゴリラは颯太を、その大きな両腕で受け止め、慎重に抱擁した。そして、ゆっくりと顔を私に向けた。ゴリラの背中からは白い湯気が立っていた。まるでSF映画で描かれるワンシーンのようだった。

 巨大なゴリラを前にして、私は不思議と足はすくまなかった。それどころか、お腹に響く雷鳴を聞いているうちに、かつて窓に張り付いて稲妻を待っていた頃の、あのヒリヒリとした高揚感が蘇るのを感じた。

 恐怖がないとは言えない。が、同時に胸の奥がじんわり熱くなる。雷を待っていたあの頃の自分が、久しぶりに目を覚ました。颯太もまた、何のためらいもなく目の前のゴリラを受け入れていた。


「ゴリラさん! ぼく、お手紙書いたんだよ!」


 幸い、画用紙は濡れていなかった。颯太が差し出した画用紙を、ゴリラは破かないように受け取って、室内の間接照明を頼りに見た。図鑑を見て描いたゴリラの絵、そして……


“ゴリラさんへ がんばってね そうた”


 ゴリラはゆっくりと何度も頷いて、颯太に向けて親指を立ててみせた。颯太も笑顔で同じポーズをした。


「ゴリラさん、こっちはプレゼント! バナナだよ!」


 颯太が今度はバナナを「どうぞ」と差し出した。ゴリラは指先を使って器用にバナナの皮を剥き、美味しそうに食べた。皮を丁寧にお皿に置くと、ゴリラは颯太と私に合掌して頭を下げた。

 豪雨は降り続いている。ゴリラは颯太の絵を脇に置くと、おもむろに立ち上がり、深く息を吸って夜空を仰いだ。勇壮だった。森の王者の風格に、私は圧倒されてしまった。そしてゴリラは、両手で激しく自分の胸を叩き始めた。


 ドラミング。

 それは打ち付ける雨音や雷鳴と完全にシンクロし、あたかもこの嵐を指揮しているかのようだった。

 颯太が真似をして、パジャマの胸を小さな両手で叩き出した。豪雨に負けまいとするように、颯太は一生懸命ゴリラと一緒に胸を叩いた。


「ママもやろうよ!」


 颯太の声に背中を押されるように、私は夫のゴルフクラブを置いた。

 自分の胸に手を当てる。戸惑いがあった。颯太が私を見ている。私は腹を括った。


 ゴリラの見様見真似で、鎖骨の下辺りを掌で叩いた。何やってんだと思ったけれど、颯太の隣で私は叩き続けてみた。すると、何度か叩くうち、掌から伝わる振動が、胸の奥の固まりを砕いていくのがわかった。


『ちゃんとしなきゃ』

『あれもやらなきゃ』

『これもやらなきゃ』


 毎日積み重なっていく、名前のない固まり。それらが、ひと欠片ずつ砕け散って消えた。響くリズム。轟く雷鳴。私はゴリラに向かって、嵐に向かって、自分でも驚くような大声で叫んだ。


 言葉にならない叫びは、雨音に混じって夜空へ吸い込まれていった。悩みも不安も、すべてがこの音の中に溶けていく。私は今、母でも妻でもなく、ただのひとつの生命体として、この嵐の中に立っている。最高に、気持ちよかった。


 ゴリラの瞳は雨を映していた。颯太の瞳も輝いていた。降りしきる豪雨の音に負けないように、三人で夜空に向かって叩き続けた。颯太が雄叫びを上げた。私たちの酔狂な声は、ゲリラ豪雨が掻き消した。


 やがてドラミングを終えると、満足そうなゴリラは颯太の絵を再び手に持った。颯太の頭にそうっと手を置き、ぽんと優しく撫でた。

 雨脚が弱まった気がして、空を見た。すると雲の上の方から声がした。ゴリラの仲間の声だろうか。そのあと雲の中から、植物のツルがゆるやかな弧を描きながら放たれた。ツルは空中ブランコのように大きな弧を描き、ゴリラを迎えにきた。ゴリラは片手に絵を持ったまま、もう片方の手でツルを掴んだ。


“じゃあ”


 そう言うみたいに、ゴリラは颯太と私を振り返り、ベランダから飛んだ。ツルにつかまって飛びながら、ゴリラは颯太の絵を頭上高く掲げた。ゴリラは大きな振り子のように夜空を飛んで、雲の中に消えた。

 まもなく、雨は止んだ。どこにも被害はなかったようだ。ゲリラ豪雨の雨雲は、私たち三人のドラミングが払い除けた。




 朝になった。

 私は二、三度瞬きをして、布団の中で伸びをした。

 おかしな夢だった。ゲリラ豪雨と一緒にベランダにゴリラが来た。でも、楽しかった。私は胸に手を当てた。あのドラミングは最高だった。


 しばらくそうしていると、隣で寝ていた颯太が身じろぎをした。颯太もお目覚めらしい。私とそっくりな伸びをして、彼はくるっと私を見て言った。


「ゴリラさん、来てくれたね!」


 カーテンの隙間から朝日が漏れている。ベランダに出てみると、からりと晴れた空の下、颯太の絵手紙はどこにもなくて、お皿にバナナの皮だけが残されていた。



 

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