噓つきは婚姻の始まり ~メモリー・ハラスメント~ (文字数制限無し)
三軒長屋 与太郎
メモリー・ハラスメント
小学生の時分から、南(ミナミ)は、実に騙されやすい性格でした。
両親が新興宗教にのめり込んでいた家庭環境からなのか、元々彼女が生まれ持った透明感からなのか……あまりに純粋無垢であり、周りから聞かされる言葉の全てを、真実として受け止めているように見えました。
そんな南を誂って楽しんでいたのが、幼馴染である私、北原 英明(キタハラ ヒデアキ)です。
幼少期の私は、実に沢山の嘘をつきました。ですが、UFOを見た、人気ゲームの最新作を持っている、週刊連載漫画の続きを知っている……といった、幼い嘘はついていません。
これは大人になった今でも思っているのですが、嘘というのは、他人につくのではなく、自分自身につくものです。そう考えれば、自ずと嘘は洗練されます。一つの目標となり、未来へと昇華されます。
小学生当時の私の嘘は、大人すらも騙せました。親、先生、近所のおじさんやおばさん、スポーツクラブのコーチ……皆、私を純真の塊のように可愛がってくれました。
そんな周りの反応が、当時の私は、ただ楽しかったのだと思う。今になって振り返ると、それを快感と呼ばずに何と呼ぶのか分からない。
私は、息をするように嘘を積み重ねました。そんな私の嘘を、南が見破れるわけもなく、子供ながらに、私の掌の上で見事に転がっている彼女が、とても愉快で、健気で、愛おしくもありました。
しかし、まだ子供だった私が、それが恋であるなどと気付くはずもなく、何事にも目立ちたがり屋な私と南との間には、必然的な空白が生まれました。
実際、私の記憶の中に、小学5、6年の南の記憶はありません。
中学に上がると、私は、同学年の中で中心的な立ち位置にいたのもあり、綺羅びやかな学生生活を愉しんだ。特段やんちゃな訳でもなく、部活動と学業を卒なくこなし、内申点も欠かさず、いたって普遍的に恋愛もしました。
南はというと、相変わらず目立つこともなく、クラスの隅でひっそりと時が流れるのを待っているようでした。1年生の頃に多少話した記憶もあるが、以降、廊下ですれ違っても声を掛けることは無くなりました。
それは、中学校生活の流れの中で、私の周りに人が集まり過ぎたのもあります。友達は勿論、後輩、当時の恋人……一方で、いつも伏し目がちに一人で歩く南。私は、当時の私の“立ち位置”を守るためにも、この陰気な女子中学生に、声を掛けるわけにはいかなかったのです。
私たちの“ちぐはぐ”な時の流れは、予想だにしない変化をもたらした。
1年、また1年と、南は、みるみる美しくなった——
それでも、彼女が目立つということはなかったし、本人も自覚していなかったでしょう。
そもそも根本的に、中学時代というものは、活発で声の大きな者がゼラニウムであり、自分に自信のある者が薔薇となる。誰に求められるわけでもなく、不躾な香りを振りまく世界。クラスの隅の影で咲く一輪の白いユリなど、絶滅危惧種に分類される。
忙しなく色鮮やかな思春期の学生生活に於いて、この地味で細やかな変化に、皆が気づくわけがありません。
ひとり、私を除いては……。
私がそれに気づいた日……それだけは今でもハッキリと覚えている。
夏休みが差し迫る中学3年、7月の放課後。ソフトテニス部の部活動が終わり、部室へと戻った私は、水泳用の水着を教室のロッカーに忘れていることに気がついた。同じ部の友人たちに少し待ってくれと懇願し、私はひとり、教室へと急ぐ。
教室のドアを開けようとした時、私はそれに息を呑む。夏の夕暮れに染まった教室。その窓辺に、南が座っていた。
控えめに開かれた窓から吹き抜ける風に、たなびく白いカーテンと黒髪。外を眺める彼女の表情は見えない。
それでもただ、美しかった。
彼女が毎日このように放課後を過ごしていたのか、当時の私には知る由もありません。何故なら私は、あの日あの瞬間に、南が同じクラスであることを思い出したのです。それほどまでに、この時の私の日常には、南が存在しなかった。
しかし、教室のドアのガラス越しに彼女を見つめるうちに、小学生の時に感じていたあのむず痒い感情が、私の胸に返り咲いたのです。幼すぎて気づけなかった恋が、くっきりと輪郭を持ったのです。
ハッと、友人たちを待たせていることを思い出し、ゆっくりとドアを開ける。南の時間を邪魔してしまうのが申し訳なかったから。これは、本当です。
ガラガラと妙に響くドアの音に驚き、南が振り向く。いったいいつから手に入れていたのか……大きく見開きながらも、決して鋭さを崩さぬ目。夕日を反射させるかのような紅い唇。そこだけ成長を止めたかのように、大人びた顔を頼りなく支える細い首。
なぜ自分が今まで気づかなかったのか、不思議でならなかった。同じクラスに、毎日過ごしてきたこの教室の中に、こんなにも美しい生き物が、同じ時を刻んでいたことに……。
「英明くん……なんだか久しぶりな感じ。同じクラスなのに不思議ね」
確かに、久しぶりに聞く南の声に、私の心臓は持ちこたえられそうになかった。南も同じように思っていたことに、得も言えぬ喜びを感じたから。
「そうだな……不思議だ」
正直、私はこの時救われた。鏡を見ずとも、自分の顔が真っ赤に染まっているのが分かった。夕暮れ時でなければ、その無様な紅潮を、南に見られてしまったかもしれない。
「いつも放課後は教室にいるのか?」
恥ずかしさを紛らわすように質問を飛ばしながら、自分のロッカーへと向かう。
「うん、私は部活動をしてないけど、あんまり早く家に帰りたくもないし。それに、私は英明くんみたいにうまく皆に馴染めないから、こうやって部活に励む皆を窓から眺めていると、なんだか私も仲間に入れてもらえた気がするの。皆と同じ学校の、皆と同じ中学3年生に……」
「“あほらし”。
皆と馴染めないなら、俺に話し掛ければいいのに」
嘘だった。
避けていたのは自分なのに、偽りの優しさを振りかざしてしまった。
「今の英明くんに話しかける勇気なんて、私にはないよ。より皆に嫌われちゃいそう。それに、英明くんだって、こんな地味な子に皆の前で話しかけられたら困るでしょ?」
なんだか、彼女の方が私の心の中に詳しい気がした。
私は、南のこのセリフに、答えを返すことが出来なかった。
気まずい沈黙の中、私は自分のロッカーから水泳用の水着が入ったプールバッグを取り出す。乱暴に扱ったせいか、生乾きの水着と塩素の匂いが混ざり合って鼻先を擽る。まさにその時の私の心情を表すかのような、アンニュイな香り……夕日に彩られた教室とは真反対な、ひどく現実的な鋭さ。
外を眺めるのを止めて俯く南。
そのまま去る訳にもいかず……あたかも、この空気を創り出したのは彼女で、自分がそこへ救いの手を差し出すかの如く、ぶっきらぼうに声を掛ける。
「お前が話しかけられないのなら、今後は俺が話をしに来てやるよ。この教室はテニスコートからよく見えるから、今日みたいに窓を開けてカーテンを揺らしていてくれていたら、お前が居るって気づけるはずさ。俺も幼馴染として、お前には学校を楽しんで欲しいと思っているしな」
当然ながら、これも嘘だった。
ただただ自分が、彼女と話す口実を作りたかっただけだ。
それでも南は昔と変わらず、それを私の優しさや面倒見の良さとでも思ったのか、健気に喜んだ。
「分かった……きっと……」
それからというもの、私は部活動の時間になると、教室のカーテンをチェックした。
どうやら南は毎日教室に残っているわけではなく、カーテンが揺れるのは、週に2回ほどであった。
校舎の3階、白い布が紅く揺れる。その度に、私の心も、赤く揺れた。
逆に、カーテンが揺れていない日には、皆よりもひと足早く、私の心の夕日は沈んだ……。
「やっべぇ……学年主任の刈谷(カリヤ)に呼び出されてたのを忘れてたわ……」
私は様々な嘘をついて、部活動の友人たちを撒いた。毎日ではなかったのが助けとなり、友人たちがこれを訝しがることはなかった。
放課後の教室……私と南……二人だけの時間。
特段なにか盛り上がるといったわけでもなく、ただ私が話す学校や芸能人の話題を、彼女がクスクスと笑いながら聞いているだけであった。
ひとつ間違いないのは、南との放課後の時間は、私の青春の中で最も輝いていたし、それに、夏休みが来て欲しくないと願ったのも、この時が最初で最後であった。
中学3年生の一学期も、土日を挟んだ月曜日の終業式で終わり。そんな金曜日の放課後、私は南と教室にいた。
「来週から夏休みになっちまうな……家族でどっか行ったりするのか?」
「私の両親はこの街から一歩だって外に出ないわ。だから私も夏休み中、家から一歩も出ないと思う。でもそれは、昔からずっとそうだから……」
今になって思えば、私はこの時初めて、南の内側をノックした気がする。自分のことばかり話をして、南のことなど何も知らない。ただ自分をよく見せたかったし、自分を知って欲しかった。私はここで初めて、“球”が返って来ていなかったことに気がつく。
「英明くん、覚えてる?」
急に打ち出された“球”を、舌を出しながら懸命に追う。
「小学校3年生の夏休み。英明くんが急に私の家に来て、外に連れ出してくれた。川の淵の秘密基地に案内してくれて、他の男の子たちは(なんで女なんか)とか、(よりによってこんな地味女)とかって反対してたのに、英明くんが(うるせぇ!)ってかばい続けてくれて、私はあの時のことが嬉しくって、つい昨日のように覚えてる。今でもあの秘密基地が、私の中で一番の“夏休みの冒険”だなぁ」
「なんだよ……あんなのすぐ近所の笹馳川(ささばせがわ)じゃないか。どこが冒険なんだか……」
嘘だ。そんな話など覚えていない。
確かに、笹馳川の堤防の藪に、皆で秘密基地を作ったのは覚えている。
その中で週刊誌を読み合いしたのも、台風で崩れた基地を皆で直したのも……。
しかし、私の記憶の中の秘密基地に、南が顔を出すことはなかった。
彼女が両手で大事に包んで見せてくれた思い出は、私の中では随分前に破けて空気の抜けたゴムボール。
記憶の藪に入り込んで見失ったみすぼらしい“球”の代わりに、新品でピカピカの“球”を咥えて戻る。
「高校に上がったら、街の外だっていくらでも連れて行ってやる。それに、高校を卒業したら、あの家からも連れ出してやるさ」
見栄や欲にべっとりとまみれてテカテカに光る“球”を、無心で喜ぶ南。
私は自分の中の罪悪感を、南の笑顔で拭った。
私の予想に反して、夏休みは楽しく過ぎ去った——
携帯電話を持たない南と連絡を取る手段はなく、私の中で1日、また1日と、彼女の輪郭は薄れていった。その代わりに、毎日連絡を取り続けていた恋人との仲はより深まり、早々に進路が決まっていた私は、テニス部のOBとして部活動にも参加し続けていた為、中々に忙しかったのもある。
恋人との些細な喧嘩や、日常の中の小さな不満……その度に、南の顔が頭を過りはしたが、夜中のベッドの上ではどうしようもなかったし、二学期が始まればまた、あの細やかな放課後の時間も再開されると思っていた。
新学期が始まると共に、南は学校に来なくなった。
この時私を襲ったのは、虚しさや喪失感ではなく、憤りであった。
夏休み中に、南の家に足を運ばなかった自分……違う。
私が用意してあげた、学校生活の中の煌めき……また、私が私自身の為に創り上げた“秘密の放課後”という宝物。
南はそれを奪い去ったのだ。彼女は私を裏切ったのだ……と。
事実、“秘密の放課後”を失った私の学校生活は、酷く退屈なものとなった。周りの人間すべてが薄っぺらく感じた。私が“A”と言えば“B”と返す。“B”と返すのが分かっているから、私はあらかじめ“C”を用意して待つ。そこには嘘も本当もない。“無”だ。
形の決まった積み木を重ねていくだけの単調な日々。その積み重ねの中で、私は南との会話を欲した。パーツの不足した積み木のような、不完全さを求めた。
10月も折り返し、秋の夕日が束の間の輝きを纏う時刻、私は南の家の前に立っていた。
実に小学生以来の訪問。インターホンの前で固まる私。
そこへ、南の父親が帰ってきた。
「おや、もしかして英明君かい?」
急に話しかけられてビクつく私に、無条件で投げかけられる笑顔。
私は、この男が苦手だった。南の母親にしてもそうだ。この人たちの瞳に、私が映ることはない。ただベトベトと、笑顔を擦りつけてくる。小学生の時点で判ってはいたが、それはこの時も変わってはいなかった。
「どうも、お久しぶりです。担任の小宮(こみや)先生にプリントを届けるようにと言付けを預かりまして……」
勿論、嘘だ。(俺が様子見てきますよ)と、私から小宮にお願いした。新卒で気の弱い小宮は、それは喜んでいた。
私はショルダーバッグの中から、徐(おもむろ)にプリントを抜き出す。南の父親は「ありがとう」と眉を動かして見せる。
「あの……少し南と話せませんか? 俺も、やっぱり……心配で」
私の言葉を聞いた南の父親の目は、今でも思い出すことが出来る気がする。着飾っていた表情をかなぐり捨て、むき出しになった瞳に映し出される感情。
娘のことを想ってくれる目の前の青年に感謝をする目。良からぬ男から娘を守るという強い意志の込められた目。はたまた、自身に降りかかる危機に怯える目。
どれも違う。
そこに在ったのは、ただ、自らのテリトリーに侵入してきた敵を見つめる目。品定めされるような……心の奥の魂胆を嘗め回されるような目だった。
南の父親は、すぐさまに笑顔を着直した。
「英明君は相変わらず良い子だね。僕も引きこもってしまった娘が心配でね、君であれば是非お願いしたいよ。
でもね、いくら幼馴染とは言っても、思春期の娘の部屋に男の子を入れるのは家内が許してはくれないだろうね。だから今、僕が呼んできてあげよう。ちょっと待っててくれるかい? それと、プリントは確かに預かったよ。小宮先生にも(ご心配をおかけして申し訳ありません)と、伝えてくれるかい?」
私が「はい」と短く返事をすると、南の父親は家の中へと入っていった。入口のドアを開け、姿を消す寸前、ほんの一瞬だけ、また“あの目”を見せた。しかし、すぐにニコリと笑みを残し、家の中へと消えた。
しばらくして、南が出てきた。
ドアの隙間から「あまり遅くなるなよ」と、先ほどまでとは違う声色の言葉だけを響かせ、南の父親がもう一度姿を見せることはなかった。
おどおどと俯く南。
「久しぶりだな」
「そうですね……」
今までの関係がゼロに戻ったかのような余所余所しさ。それが、この家に起因しているのか、急に訪れた私に対してなのかは、分からなかった。
「少し歩こうか」
私はそう言って南を夕暮れの散歩に連れ出した。できれば彼女の方から色々と話して欲しかったのだが、そんなわけにもいかず、特段の会話もないまま、気づけば笹馳川に来ていた。
先日南と話した秘密基地近く。しかし、二年ほど前に舗装され、今や跡形もない。無機質に並べられたコンクリートブロックが、二人の思い出ごと塗りつぶし、私たちの気まずさを助長する。
私が堤防に腰を下ろすと、南もそれに倣って座る。
「どうして来てくれたの?」
急に飛ばされた南の質問に対して、私は答えを持ち合わせていなかった。故に、質問を上塗りする。
「どうして学校に来なくなったんだ?」
南はこれに沈黙を返す。夕暮れの笹馳川に、二つの質問が、答えを得られず彷徨う。
不意に、南が昔の話を始める。
「この川も変わっちゃったね。私は秘密基地があった頃の、藪だらけの川が好きだった。堤防の舗装工事が始まった時、英明くんとの思い出が消されていくみたいで悲しかったな。私を秘密基地に連れて行ってくれた日、英明くんが言ってくれたこと……今でも覚えてる」
南が何故そんな話をし始めたのかも分からなかったし、当然、自分が言った言葉など覚えてはいなかった。
「(俺は将来、南と結婚するんだ)って、皆の前で急に……凄く恥ずかしかったし、勿論、小学3年生の言葉だって理解してる。でも、私の中ではとても大切な記憶なの。私も、誰かに必要とされる時があるんだって励ましてくれる思い出の言葉……」
記憶の中を眺めるように、ぼんやりと空を見上げる南。何故、当時の自分がそんなことを言ったのか……やはり記憶にもない。ただ分かっていることは、小学3年生の私が南に放った台詞は、間違いなく嘘だ。それは自分が一番わかる。皆の驚く顔が見たくて揶揄っただけだ。
そして、この嘘は、私にとっての利用価値が高かった。
「俺も覚えているし、その気持ちは今も変わらないよ」
殺風景な堤防に、生暖かい緊張感が漂う。南の身体がビクつくのを横目で感じたし、困惑して目を泳がせる表情も容易に想像できた。
これは嘘であり、本意でもあった。
事実、私は彼女を手に入れたいと思っていたし、秘密の放課後も取り戻したかった。結婚などという言葉の重さを、中学3年生が理解できるはずもないし、言い換えれば、それは相手にも重さを感じさせないのではないかと。
私が欲しかったのは口実。彼女が学校に来る……放課後を取り戻す……南を自分のそばに置き続けるための口実だ。
堤防に無造作に置かれた南の右手に、自分の左手を重ねる。いびつな形が、ひとつの丸になる。耳まで赤くなる身体を、互いに夕焼けのせいにする。
私はこの時……今ならどんな歌手よりも“上手な歌詞”を書ける気がした。
誰よりも上手な嘘をつける気が……。
次の日から、南は学校に戻ってきた。
これは大人になってから聞いた話だが、当時の彼女は、特定の女子グループから陰湿ないじめにあっていたらしい。しかし、放課後以外にも、私が南に話しかけることによって、不登校から復帰したのが私の影響であることは周知の事実となり、結果としてこれが彼女を守った。
担任の小宮は大いに喜び、私の内心点は上がる必要のない所まで上がった。
私が話しかけるようになったからか、不登校からの復帰という物語が目立ったのか、皆が南の美しさに気がついた。
しかし、今更手を伸ばしたとて無駄なことだ。南は私しか見ていないし、私しか頼れない。彼女に触れられるのは私だけだ。
例え嘘で塗り固めた虚像でも、バレさえしなければ実像も同じ。これは欲しいものを手に入れる為の努力であり、罪悪感などあろうはずもなかった。
ひとつ、当時の恋人はこれを良く思わなかったが、私の裁量の範疇であったし、正直どうでもよかった。どうせ中学生活の中だけのおままごと位にしか思っていなかったし、高校で離れ離れになれば終わる関係と分かり切っていた。
当然ながら、恋人とは別れることとなったが、なんら喪失感は無かった。
確かに綺麗な女の子ではあったが、所詮は絵の具で塗り固められた造花の薔薇に過ぎない。天然のユリを手に入れた私にとっては、ケバケバしいだけで何の香りも感じられない。所詮、ただの飾りに過ぎなかったのだ……と。
それ以降の学校生活は、一段と輝きを増した。
あっという間に冬を超え、私はスポーツ推薦で男女別学の高等学校に進み、南も女子高へと進学した。
高校に入って携帯電話を手に入れた南は、私に沢山の事を話してくれるようになった。高校で出来た新たな友達の話、美術部に入って絵を描き始めた話、そして、高校卒業後の話。
——高校3年生の春、私たちはまた笹馳川の堤防に座っていた。
あの時よりぴったりと、互いの影を重ねて。
「俺は高校を出たら、東京の大学に行こうと思ってる。南も一緒に来ないか?」
「勿論! 私一人だったら絶対にそんな決断出来ないし、今の私が在るのは英明くんのお蔭。だから、英明くんが向かう場所なら何処へだって……それに、あの日の放課後に言ってくれた言葉……それが私の今の原動力だから」
(高校を卒業したら、あの家からも連れ出してやるさ)
私は、南が思い浮かべているであろう自分の言った言葉を、頭の中で復唱した。
しかし、彼女の中にある言葉は違っていた。
「あの日、英明くんが言ってくれた(最近綺麗になったお前から、目が離せない)って言葉。とてもキザで、なんだか英明くんらしくないけど、力強くて、グッと引き寄せられる言葉」
私は当惑した。
またしても現れた記憶にない言葉。それも、今までとは違い、ごく近しいはずの記憶だ。
言葉自体は本意だと思うが、なぜ自分がそれを口に出したのか理由が思いつかない。南の言う通り、全く自分らしくない言葉。
思えばこの時から、私の記憶の歯車は狂い始めた。私の中には存在しない……南の中にのみ存在する私の言葉。
そもそもに、私は本当にそんな言葉を言ったのか? 南の記憶の捏造ではないのか?
思考を巡らせても答えは見つからず、私は照れるフリをしてその場を誤魔化した。
——何故、私がこのような過去を語っているのか……。
まず先に、その後の私たちは、不気味なほどに喧嘩もせず、また、私が南から目を背けることもなく、至って順風満帆です。
二人ともに、東京の神保町にある大学に合格し、上京とともに同棲を始めました。南の両親は、最初こそ反対してはいましたが、セキュリティの万全な部屋を選び、二人で説得。加えて、万が一の時は私がその家を出ていくことを条件に、何とか了承してくれました。
それでもやはり、南の両親と私との距離は縮まらなかったし、それは今も変わりません。年に2回、お盆と年末年始には、南は決まって実家へと帰り、その間は最低限の連絡しか取れませんが、それくらいです。
私が「たまには一緒に帰って挨拶しようか?」と尋ねても、南は優しく首を振るだけですし、私としては出来ることもなく、ただただ、これが丁度良い距離感なんであろうと……。
ただひとつ、今でも私の心に引っ掛かり続けているものがあるとするならば、それはやはり、南と私の中の記憶のズレです。
彼女はいまだによく、昔の私との思い出を話してくれます。しかし、南の中に現れる“英明くん”を、私は悉(ことごと)く思い出せません。“英明くん”が南に向けて放つ素敵な言葉たちも、自認できません。
それでも良いのです。いや…その方が良いのです。
私の知らない“英明くん”のお蔭で、今の二人の生活があるわけですし、この先の道が続くのです。
私たちはこの春、大学を卒業し、新たな季節を迎えるとともに婚姻届を提出します。
南の記憶の中にしか存在しない嘘つきな“英明くん”と、南を純真に愛する今の英明。
二人で南を幸せにすると誓い、4月1日をもって。
私はただ、確認したかったのです。
南との思い出を振り返ることで、今の自分の気持ちが本心であるかを。あの頃の自分の嘘を受け入れ、事実へと昇華出来ているかどうかを。今後は“二人の記憶”として、全てを背負える覚悟があるかどうかを。
俯きがちな白いユリに、世界を素晴らしく見せられるように。
北原 英明
◆◇◆
わたしは、昔から、記憶することが好きでした。
教室の窓際で揺れるカーテンの形や、季節ごとに移り変わる風の香り。
あの子の机に増えた傷。あの日の黒板に、うっすらと取り残された文字。誰かが何気なく発した言葉の、語尾の揺れ方。
みんなは、そういうものをすぐに忘れてしまう。けれど、わたしの中では、それらはずっとそこにある。消えずに、形を保ったまま。
英明くんが言った言葉も、そうだった。
小学校3年生の、あの夏の日。秘密基地で……皆の前で、少しだけ背伸びをして言った強くて優しい声。
——俺は将来、南と結婚するんだ——
あの時、みんなが笑ったことも覚えている。一人の男の子が「結婚式に呼んでくれ」と囃し立てたことも。英明くんが、照れたように笑って、それでも最後まで否定したり、撤回したりしなかったことも。
でも、5年生のとき。
廊下の角の向こう側で、英明くんが友達と話しているのを、わたしは聞いてしまった。
「え、南? あー……あれは、その頃のノリだろ。覚えてねえよ、そんなの」
冷たい廊下に反響する甲高い笑い声。ひどく軽い声。何でもないことのように、笹馳川に流し捨てられた思い出の言葉。
ああ、と思った。
わたしの中で、ずっと大事にしてきたものは、英明くんの中では、もう存在していないのだ……と。
その日から、世界の見え方が少しだけ変わった気がする。
人は、簡単に言葉を捨てるし、簡単に忘れるってことを知った。
わたしと違って、みんなは簡単になかったことにするのだと理解した。
それが、とても怖かった。だから、わたしは今までよりも明確に、より詳細に覚えていようと思った。
少なくとも、わたしだけは。
英明くんの言葉を。
英明くんの表情を。
英明くんが、わたしにだけ向けてくれた、恥ずかし気に揺れる声を。
中学3年の7月。
わたしは、教室のドアの外で、わたしのことを見つめる英明くんに気づいていた。今までで一番長い時間、私を見つめ続けてくれたから。
ずっと、このままでありたい……と、夕暮れの風に願った。
放課後の教室で、二人きりで話すようになってから、英明くんはたくさんの言葉をくれた。
「放課後の教室は、時間の流れが違う気がする」
「南と話してると、なんだか落ち着くんだ」
「……最近綺麗になったお前から、目が離せない」
どれも、わたしの中では、嘘じゃなかった。少なくとも、その瞬間の声は、とても煌びやかな真実だった。
でも、わたしがその輝きに手を伸ばすと、また笹馳川に流されてしまう気がした。
だからわたしは、この宝物を私の中だけに閉じ込めようと、自分の部屋に引きこもった。
たとえ、英明くん自身が忘れてしまっても。たとえ、英明くんが(子供の頃のノリだろ)と笑っても。部屋から出さえしなければ、失うことはないと信じたかった。新たな記憶に塗りつぶされることもないと思いたかった。
わたしの中に残っている限り、それは、存在し続けるのだから。
高校生になって、大学生になって、同じ部屋で暮らすようになっても、英明くんは、ときどき不思議そうな顔をする。
「そんなこと、俺言ったっけ?」
そのたびに、わたしは笑う。笑って、「言ったよ」と答える。
だって、言ったのだから。わたしは、嘘をついていない。
ただ——
もしかすると、わたしの記憶の中の英明くんは、現実の英明くんよりも、少しだけ優しすぎるのかもしれない。でも、それでもいいと思っている。
わたしは、英明くんの言葉によって、ここまで来た。生き延びてきた。
確かに、救われてきた。
だからこそ、わたしが覚えていればいい。わたしが信じていればいい。
たとえそれが、どこまでが現実で、どこからがわたしの願望なのか、もう分からなくなっていたとしても。
4月1日。
婚姻届に、ふたりの名前を書く。
私は北原 南になる。
私は英明くんと家族になる。
きっと、英明くんは言う。
「なんかしっくりこないな」とか、「不思議だな」とか、そんな言葉を。
わたしは、その声の調子も、はにかむ表情も……ずっと覚えておく。
ひとつ、またひとつ、大切な記憶として、この脳裏に焼き付ける。
これからは、英明くんがどんなに忘れてしまっても、もう大丈夫。
私たちの暮らすこの街に、笹馳川は流れていないのだから。
噓つきは婚姻の始まり ~メモリー・ハラスメント~ (文字数制限無し) 三軒長屋 与太郎 @sangennagaya_yotaro
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