第0話

それは、彼との「忘れ物」の日々が始まる前夜のことだった。

崎村リオは、図書室の窓際に座り、校庭で部活動に励む「彼」の姿を眺めていた。

十年前、雨の降る公園で。いじめられて泥だらけの自分に傘とハンカチを差し出し、名前も告げずに去っていった少年。あの日から、リオにとって世界は「彼がいる場所」と「それ以外」に分かたれた。

けれど、彼は彼女を覚えていない。クラスメイトの一人として、時折視線を交わすだけの、遠い存在。


「……普通の女の子として隣にいても、あなたは私を『大勢の中の一人』としてしか見てくれない」


崎村は、胸に抱いた古いハンカチを強く握りしめた。

彼女が欲しかったのは、友情でも、穏やかな交際でもない。

彼の記憶という聖域に、二度と消えない傷跡を刻むこと。一生治らない、痛切な「特別」になること。

その歪んだ純愛に呼応するように、図書室の影が、粘り気を持って蠢き始めた。


『……クク、呼び声に応じて参上した。貴様の願いを聞こう』


本棚の影から、不自然なほど細長い「指」が這い出し、空気を掻いた。輪郭のない闇が凝縮され、名状しがたい異形が彼女の前に現れる。


「……あなたが、願いを叶えてくれるの?」


崎村は怯えなかった。むしろ、救い主を見るような瞳でその闇を見つめた。


『対価次第だ、小娘。……何を望む?』


「彼と、毎日二人きりになりたい。……彼が私のことだけを考え、私だけと話し、私だけが彼の世界のすべてになる時間が欲しい」


異形は、獲物を前にした蛇のように声を震わせ笑った。


『ならば、きっかけを与えよう。……彼が毎日、校門を出る瞬間に記憶を一部失い、教室に忘れ物を取りに戻るように細工してやろう。……代償は、貴様の「寿命」だ。彼と会話を交わすたびに、一言につき一時間の命を、私が啜る』


「……分かった」


崎村は即答した。一週間、彼と過ごした。彼が自分の席の隣に座り、他愛のない話をして笑う。そのたびに彼女の命は削られていったが、彼女にとっては彼と繋がっている証だった。

けれど、七日が過ぎた頃。崎村は気づいてしまった。

このままでは、彼はいつか私を「優しいクラスメイトとの思い出」として、過去に追いやってしまう。


「……足りない。もっと。もっと深く、彼に刻み込みたい」


彼女は、鏡の中に映る自分の白髪を見つめながら、再び異形を呼んだ。


『欲深いな。……これ以上を望むか?』


「ええ。現世からあの教室を切り離して。……誰にも邪魔されない、二人だけの檻を作ってほしい」


異形の影が、天井を埋め尽くすほど巨大に膨れ上がった。


『よかろう。だが、空間を維持する負荷は、これまでの比ではないぞ。……貴様がその密室で「世界の真実」や「契約の代償」を口にすれば、数年、あるいは数十年単位の命が、一瞬で消失する。……想いを伝えれば、貴様は確実に死ぬ。……それでもよいか?』


「……それがいい。……彼のために死ねるなら、それ以上の幸せなんてないわ」


崎村は、恍惚とした表情で微笑んだ。


「……ありがとう、神様」


崎村は、彼から借りたジャージの袖に顔を埋め、彼の匂いを吸い込んだ。


明日、この教室で私は死ぬ。

けれど、彼は一生、この茜色の空を見るたびに、私を思い出して絶望してくれる。


それは、彼女が一生をかけて計画した、最も美しく、最も残酷な「初恋の成就」だった。

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放課後の君を独り占めしたい! かねこまさよし @neutral_andou

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