第6話

崎村リオが消えてから数日が経った。

学校へ行くと、彼女の机は相変わらず「最初から予備の机」#になっていた。


「なあ、ここ、誰か座ってなかったか?」


「え? 何言ってんだよ。そこはずっと空きだろ。荷物置きになってたじゃん」


友人は不思議そうに僕を見た。出席簿からも、クラス写真のデータの隅からも、彼女の姿は消えていた。

僕の記憶だけが、この世界のバグのように、彼女の声を、体温を、あの箒が挟まったような扉の感触を鮮明に覚えていた。

放課後、僕は図書室へ向かった。彼女がいつも座っていたという窓際の席。

そこには、彼女が読んでいたはずの文庫本がポツンと置かれていた。貸出カードを確認する。そこには名前がなかった。白紙の欄が、ただそこにあるだけだ。


「……崎村。君は、本当に全部払っちゃったんだな」


僕はその本を抱きしめた。

彼女がいた証拠は、僕のポケットの中にある古びたハンカチと、この誰も読まない本だけ。

やりきれない思いが胸を焦がす。あの時、僕が叫んだ言葉。


『こんなことしなくたって、俺はお前の気持ちを受け止めてた』


その言葉が、今さら呪いのように自分に跳ね返ってくる。

僕は、もう一度だけ確かめたかった。

彼女が何と引き換えに、あの時間を手に入れたのか。

彼女を殺した「契約」の正体は何だったのか。

僕は、あの日と同じ、火のつくような夕暮れを待って、教室の扉に手をかけた。


ガラガラ、と扉が開く。

あの日とは違い、扉は軽かった。けれど、教室の中は、あの日と同じ「異常な茜色」に染まっていた。


「……いるんだろ。そこに」


僕は、誰もいない教壇に向かって問いかけた。

沈黙。

だが、影が伸びた。

窓から差し込む夕日が、ありえない角度で屈折し、床の上に巨大な指のような影を落とした。


『……クク、また来たのか。あの娘の残香を追って』


声は耳からではなく、脳髄に直接響いた。

黒い霧のようなものが教室の隅で渦巻き、輪郭のない、けれど圧倒的な悪意を持った「何か」が形を成していく。


「お前が……崎村と契約した神か」


『神、か。呼び名などどうでもよい。私はただ、対価を受け取り、望みを与えたに過ぎぬ』


「あいつの……崎村の命を、返せ。あんな、わずか数時間の会話のために、一生を奪うなんて、間違ってる」


影は、嘲笑うように細長く揺れた。


『間違っている? 滑稽なことを。崎村リオは、自ら望んで差し出したのだ。己の全存在、全時間、全記憶。それを秤にかけてでも、貴様との「不純物のない時間」を欲したのだ。……あれは、ここ数百年で最も美しい「供物」だったぞ』


「……あいつは、怖がってた。死ぬ間際まで、震えてたんだぞ」


『ああ、そうだ。恐怖こそが愛を純化させる。……貴様、あの時言ったな。「こんなことをしなくても、気持ちを受け止めていた」と』


影が、僕の目の前まで迫る。冷気が肌を刺した。


『それは傲慢というものだ、人間。……崎村リオは知っていたのだよ。貴様が「優しい」男だと。……だが、その優しさは、彼女一人のためのものではない。普通に告白すれば、貴様は確かに受け入れただろう。だが、それは同情か、あるいは日常の延長線上にある妥協だ。……彼女が欲したのは、貴様の人生において「絶対に消えない、唯一無二の刻印」だ』


影の指先が、僕の胸を指した。


『見ろ。今の貴様を。……崎村リオがいなくなった世界で、貴様だけが彼女を想い、絶望し、こうして私にまみえている。……彼女の目論見通りだ。貴様はもう、一生、彼女という呪縛から逃れられない。……これこそが、彼女が命を賭して手に入れたかった「勝利」なのだよ』


「……そんな……。そんなのために、あいつは……」


彼女の愛は、僕が思っていたよりもずっと深く、そして狂っていた。

僕を、独り占めするために。

僕の心の中に、一生治らない傷跡を残すために。


『……さて、対話は終わりだ。契約は完了している。彼女はもう、どこにもいない。私の糧となった。貴様と喋っているのはサービスに過ぎん』


影が霧散していく。

夕陽が急速に弱まり、教室に本当の夜が訪れようとしていた。


『……一つだけ、教えてやろう。……彼女が消える瞬間、最後に何を思っていたか』


影の、最後の囁き。


『彼女は、貴様のあの絶叫を聞いて……「ああ、これで彼は、一生私を忘れない」と。……最高の恍惚の中で、果てたぞ』


気がつくと、僕は夜の教室で一人、突っ伏していた。

あの神の気配はもうない。

ただ、静まり返った校舎に、警備員の懐中電灯の光が遠くに見えるだけだ。

僕は、ポケットから彼女のハンカチを取り出した。

あの神は言った。彼女の愛は、僕を縛るための呪いだったと。

けれど、僕にはどうしてもそうは思えなかった。

あの、腕の中にいた彼女の。

「大好きだよ」と言った、あの消え入りそうな声の。

そこにあったのは、ただの純粋で、不器用な、一人の少女の真心だったと信じたかった。


「……バカだな、崎村」


僕は、彼女がいなかったことになっている世界へと歩き出す。

彼女が望んだ通り、僕は一生、この痛みを抱えて生きていくだろう。

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