第5話
会話は二時間を超えた。
「……思い出してほしいの」
「思い出すって、何を……?」
彼女の声が、ガラガラと掠れている。
「小学生の時……雨の日の、放課後」
「雨の日?」
「そう。古い神社の裏の公園。……いじめられて、泣いていた女の子。そこに、一人の男の子が来て、傘を差し出して、自分のハンカチで泥を拭ってくれた」
彼女が一つ言葉を発するたびに、彼女の髪の毛が数本、パラパラと机の上に落ちた。
抜けたのではない。
崩れ、消えたのだ。
「あのハンカチ、私、今でも持ってる。……洗って、アイロンをかけて……ずっと」
「崎村……お前、もしかして、あの時の……?」
記憶の底から、小さな映像が浮かび上がる。
「……よかった。……少しだけ、思い出してくれた」
彼女は咳き込んだ。
口元を押さえた指の間から、赤い血ではなく、黒い砂のようなものが溢れ出す。
「崎村! 何か、とんでもないことが起きてる。早く病院に行かないと……!」
僕は立ち上がり、もう一度扉を蹴るようにして引いた。
――ガガガッ。
隙間から見えたのは、廊下の景色ではなかった。
蠢くような、深い、泥のような闇。
「なっ……!?」
「……病院には行けない。ここは、私たちの世界じゃないから。……私はね、神様にお願いをしたの。どうしても、あなたに伝えたいことがあったから……」
その瞬間、教室の隅から、見てはいけない「何か」の視線を感じた。
巨大な、名状しがたい影が、天井で蠢いている。
「崎村、お前、何をしたんだ!?」
僕は彼女の肩を掴んだ。
軽い。綿菓子のように、存在感が薄れている。
「……契約したんだよ。……あなたと二人きりになる時間を、買った。……代償は、私の『寿命』」
「は?寿命……?何言ってんだよ……」
「最初はかわいいものだった。君が毎日忘れ物をしたらいいって……そう願った。そうすれば君と会えるから」
崎村は、僕を見つめて、慈しむように微笑む。
「 もう出よう、今すぐここから!」
「無理だよ。……扉の外にあるのは、私の絶望が形になった壁。……あの箒が詰まったような感触は、きっと神様が扉を押さえている感触なの」
僕は戦慄した。
あのガチリという手応え。あれは、人智を超えた存在が、僕たちをこの箱庭に閉じ込めるために扉を固定していた音だったのだ。
「……あの時、あなたが助けてくれなかったら、私は……とっくに消えていた。……あの日から、私の時間は、あなたを好きでいるためだけにあったの」
「崎村……」
「……覚えてなくても、いい。……ただ、この世界に、私という人間がいて……あなたを、愛していたという事実が……一瞬でも、あなたの心に刻まれれば……」
彼女の口から再び黒い砂のようなものが溢れ出す。
「やめろ、崎村! もう喋るな! 何も言うな!」
僕は彼女の背中に手を回し、優しくさすった。
今、この瞬間も、彼女は僕に想いを伝えるために、自分の命を粉々にして燃やし続けている。
「そんな、そんなことのために……! なんでこんな……っ!」
こみ上げる情熱と、怒りと、どうしようもない悲しみが、僕の喉を突き破った。
「こんなことのために死ぬな!!」
僕の叫びが、夕闇の教室に木霊する。
「俺は、お前がこんな空間を作らなくたって……こんな命を削るような真似をしなくたって、崎村の気持ちを、ちゃんと受け止めてたよ!!! ちゃんと話せば、俺だって……!」
崎村は目を見開いた。
彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
けれど、その涙も、床に届く前に光の粒子となって霧散していく。
「……あ……はは……そう、だったんだ……」
彼女は、あまりにも幸せそうに、絶望的なほど穏やかに笑った。
「……嬉しい。でも、後悔はしてない。だって、こうしなかったら、君は……私を見つけてくれなかったでしょ?」
「そんなことない! 絶対に、いつか……っ」
「……いいんだよ。……これが、私の選んだ、一番の幸福だったから」
彼女の体が、僕の腕の中で、羽毛のように軽くなっていく。
「……最後に、わがままを言ってもいい?」
「ああ、なんだよ。何でも言ってくれ」
「……忘れないで。……ほんの一瞬でいいから。……あなたの記憶の片隅に、私が……生きていたことを……」
崎村は精一杯の力で、僕の首に手を回した。
彼女の体はもう、霧のように透けていた。
「大好きだよ。……ずっと、ずっと……」
その言葉を最後に彼女の体は、音もなく弾けた。
銀色の光が教室を満たし、僕は眩しさに目を閉じる。
……ガタン。
重苦しい音が響いた。
目を開けると、そこはいつもの、静かな、夜の教室だった。
教室に扉は半開きになっていて、隙間には何も挟まってなどいなかった。
夜風が入り込み、カーテンを静かに揺らしている。
「崎村……?」
返事はない。
隣の席を見ても、カバンも、ノートも、彼女がいた痕跡は何一つ残っていなかった。
学校の名簿からも、生徒の記憶からも、彼女は消えてしまったのだろう。
とある神との契約。その真の対価は、存在そのものの抹消だったのかもしれない。
けれど。
僕の腕の中には、確かな感触が残っていた。
彼女が消える寸前、僕の胸に顔を埋めた時の、微かな温もりと、涙の跡。
僕は、開いたままの扉から、誰もいない廊下へと歩き出す。
彼女が命を懸けて伝えたかった想いは、今、僕の心臓の中で、痛いほどに脈打っている。
「……忘れないよ」
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