第2話
翌日。カバンの中にあるはずの重みが足りないことに気づいた。
「……嘘だろ」
歩みを止め、中を探る。入っているはずの筆箱がない。昨日の数学のワークに続き、二日連続の失態に自分でも呆れてしまった。
またあの階段を上り、茜色に染まりつつある廊下を歩く。
教室の扉を開けると、そこには昨日と同じ場所に、昨日と同じように、崎村リオが座っていた。
「……あ。また忘れ物?」
彼女は読みかけの本を膝に置き、少しだけ首を傾げて僕を見た。
「いや、面目ない。最近疲れが残ってるのかもな……」
苦笑いしながら自分の席へ向かう。机の中に手を突っ込むと、案の定、使い古した筆箱がそこに居座っていた。それを取り出している間も、背中に彼女の視線を微かに感じる。
「毎日頑張ってる証拠だよ」
その声の響きがあまりに優しくて、僕は筆箱をカバンに仕舞う手を止め、彼女の方を振り返った。
「ところで崎村、昨日はありがとな。おかげで今日の小テスト、いい点数が取れたよ」
昨日の放課後、彼女が教えてくれた「32ページの3番」。まさにその類題がテストに出ていたのだ。
「え……。そう、よかった」
礼を言うと、彼女は少しだけ意外そうに目を見開いた。それから、透き通るような白い頬が、夕陽とは別の熱でじわりと赤く染まっていく。彼女は照れ隠しをするように、視線を本の方へと落とした。
「先生が、あそこは秘密だって言ってたんだけどね」
「おいおい、何バラしちゃってんだよ。先生も崎村を信頼して教えたんだろうに」
僕が冗談めかして言うと、彼女は「そうかもね」と言って、小さく声を立てて笑った。昨日まではただの「大人しいクラスメイト」だった彼女との間に、小さな、けれど確かな共有事項が生まれたのだ。
「崎村は、いつもこうして残ってるのか?」
ふと気になって尋ねてみた。
「うん。図書委員の仕事がある日も多いけど、そうじゃない日も、勉強するために残ってるよ。……家だと、なんだか集中できなくて」
「へえ、崎村でも家だと集中できないなんてことがあるんだな。いつも完璧にこなしてるイメージだったけど」
意外な共通点に驚きながら言うと、彼女はふと、不安そうな瞳をこちらに向けた。
「……失望した? 案外、だらしないんだなって」
彼女にとって、この放課後の自分は、他人に見せない秘密の部分なのかもしれない。
「いや、むしろ逆。俺も家じゃ全然ダメだから、逆に安心したよ。崎村みたいな優等生でも同じなんだなって」
僕が本音を伝えると、彼女の表情がふわりと和らいだ。
「ふふ、案外似てるんだね、私たち」
彼女は満足そうに微笑み、再び本に目を落とした。その横顔を見ながら、僕はなぜか「明日もまた、何かを忘れてしまうかもしれない」という予感に囚われていた。
彼女の黒髪の隙間に、一筋だけ、銀色に光る髪が混じっていることに、僕はまだ気づいていなかった。
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