第三項 非効率観測対象:理由なき感謝

 私はザ=ルル=エン。

 宇宙文明において、侵略調査を担当する個体だ。


 非効率の坩堝るつぼ、日本の都市部に滞在中である。


 この文明では、

 個体同士が不必要に干渉し合う。


 私は交差点の端に立っていた。


 昼の光は強く、

 影は短い。

 信号機の色が、

 はっきりと地面に映っている。


 人通りは多くないが、

 完全に途切れてはいない。

 通り過ぎる足音。

 遠くの話し声。

 街は、起きている。


 私の視界の中に、

 地球人の雌個体と幼体がいた。


 雌個体は周囲を見ている。

 幼体は見ていない。


 幼体の視線は、

 信号ではなく手元に向いている。

 動きは不規則。

 危険度は、低いがゼロではない。


 私は観測を続けていた。


 ――そのとき。


 幼体が、一歩踏み出す。


 信号は赤だ。


 事故発生確率を算出する。

 低い。

 だが、ゼロではない。


 本来であれば、

 無視してよい誤差だ。


 だが私は、新装置を起動していた。


 《行動優先度上書き装置》。


 本来は、

 集団の判断基準を乱し、

 混乱を誘発する侵略用装置である。


 今回は、

 極小範囲で使用した。


 装置が反応する。


 走行中の車両が減速する。

 幼体の足が止まる。

 信号の切り替えが、

 ほんの一瞬だけ遅れる。


 すべてが、

 偶然として処理される程度に調整された。


 事故は発生しなかった。


「あっ……!」


 雌個体が幼体を引き寄せる。


「ユウ、だめでしょ!」


 幼体は、

 何が起きたのか分かっていない。


 周囲の歩行者も、

 特に気にしていない。

 昼の街では、

 小さな出来事はすぐに流れる。


 私は装置を停止した。


 介入は完了している。


「……すみません」


 雌個体が、

 私に向かって声をかけてきた。


「今の、見てましたよね」


「事象は観測していた」


 私は事実のみを返す。


「びっくりしました」


 彼女は息を整えながら、

 幼体の頭に手を置く。


「本当に……

 何もなくてよかったです」


 彼女は、

 理由を探していない。


 ただ、

 結果だけを受け取っている。


「……ありがとうございます」


 私は一瞬、処理を遅らせた。


 なぜだ。


 私は、

 何もしていないことになっている。

 少なくとも、

 彼女の認識ではそうだ。


「私は侵略調査をしている」


 正確に伝えた。


「……そうなんですね」


 理解はされていない。

 だが、拒否もされていない。


「名前、聞いてもいいですか」


「ザ=ルル=エンだ」


「……ルルさん、ですね」


 丁寧な呼称だ。

 短縮はされていない。


 私は訂正しなかった。


「私はミサキです」


 彼女はそう言い、

 幼体の手を握り直す。


「なぜか分からないんですけど」


 少し困ったように笑って、

 もう一度言った。


「ありがとう、ルルさん」


 理由なき感謝。


 因果関係の欠落。

 極めて非効率だ。


 だが、

 不快ではない。


 信号が青に変わる。


 親子は、

 周囲に溶け込むように歩き出す。


 ミサキは、

 振り返って軽く会釈し、

 そのまま行ってしまった。


 私はその場に残り、

 記録を作成する。


【侵略調査報告書】


調査担当個体:ザ=ルル=エン

観測地点:日本の都市部(昼間・交差点)


侵略進捗率:0.0005%


主観的所見:

・介入は認識されていない

・結果のみが評価されている

・感謝が原因不明のまま発生


局所的影響:

・事故:回避

・不安:低下

・接触:成立


総合判断:

侵略は周囲に溶け込みながら作用している。



 私は歩き出す。


 この文明では、

 理由の分からない干渉が、

 善意として受け取られる。


 この非効率は、

 侵略調査において極めて有用だ。


 地球に対する侵略は、確実に進行している。

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