第1話 ヒスイ

ブレス歴506年春、アスラ王国マーズ地方

 

 マーズ地方の春は遅い。この日もまだ寒さが残る中、霜のついた草を踏みしめながらヒスイは息を吐く。白い吐息が一瞬だけ揺れ、すぐに春の風に溶けた。

 今日、ヒスイ・モエギは18歳になった。誕生日を祝われた記憶は、ひとつもない。13歳の時に“地の使い手”としてマーズ地方軍に入隊してからもう5年が経っていた。

 今、ヒスイはマーズ地方軍の小隊を率いて指揮を務めている。誰にも優しい性格と、長く美しい黒髪は同僚の男性騎士達の憧れである。だが、本人は色恋にはまったく興味がなかった。

 

「ヒスイさん。あの山の中腹の洞窟ですね。あと半刻くらいでしょうか?」


 隣国との国境に近い、森林地帯ではここ数ヶ月で商隊が襲われる事件が続いた。アスラ国情報部が捜査を進め、"混沌の魔団"という宗教組織を後ろ盾とした盗賊団の存在が明らかになった。今回は盗賊団の討伐にはヒスイの班が10名、他に2班動員されている。隊長はフセルニア近衛騎士団副団長である。


「私は状況の共有のために監視任務中のジルバ班と合流します。マルシムは一緒についてきてください。ミツイ副長は他の班員と待機をお願いします」


 フセルニア副団長の来訪にヒスイは緊張していた。口調が少し硬い。


「ヒスイさん、俺も連れて行ってくださいよ」

「あなたがついてきちゃったら、何かあった時に指揮を取れないじゃない。何かあったら、ムサシ班の位置まで後退してくださいね」


 不服そうなミツイに苦笑いをしながらヒスイはマルシムの肩に手をかけた。


「マルシム、念のため風の守りをお願いします」

「ヒスイさん、任せてください!」


 マルシム・アンダルシアは17歳、“風の使い手”の女の子である。能力が高く、何よりヒスイのことを心から慕っていた。そして、ヒスイも自分を慕ってくれる後輩を信頼していた。


「ミツイ副長、よろしくお願いします」


ヒスイはミツイにひらひらと手を振ると静かに山の中腹へ向かった。



 


 木漏れ日の粒が二人に降り注ぎ、足元にわずかに残る雪がマルシムの風魔法に舞う。その雪の舞って消える様は、マルシムの風魔法が周囲の音を吸い込んでいるためだ。

 ときおりリスが音を立てずに歩いている人間を見つけて、慌てている。そんなリスにとっての災難である二人は気の抜けた会話を交わしていた。


「ミツイ副長はヒスイさんのことが好きなんですよ」


 マルシムは口を尖らせながら不服そうに言った。ヒスイとマルシムがたてる音は二人にしか聞こえない。


「そんなことないよ。若い班長が心配なだけです」


 ヒスイはミツイとは何度も衝突したが、今は頼りにしている。マルシムは前方に突き出た枝を風魔法で乱暴に折ると、不服そうに言った。


「ヒスイさんは自分がかわいいことをもっと自覚するべきです。…しかも、ヒスイさんは誰にでも優しいし…」


 小鳥が急に現れた侵入者に抗議するように一声鳴いた。その鳴き声を聞いてヒスイはあたりへの警戒がおろそかになっていることに気が付いた。


(副騎士団長から離れて気が抜けた…。ちゃんとしなきゃ…)


 ヒスイが気を張った時だった。ふと皮膚にざわつく、嫌な予感を覚えた。鳥の声が途切れ、森の色が変わった気がした。ヒスイは即座に足を止めた。


(魔物の気配?いや!)


「マルシム、山の中腹、洞窟付近!!音、拾えますか?」


 緊張で指が震えた。今、ヒスイ達は山の中腹にある洞窟を目指している。ヒスイ達のいる場所は洞窟まで走ればすぐに着く。


「はい、お待ち下さい。静寂の魔法は解呪します」


 次の瞬間、マルシムが拾った音は―――――金属の激突音が、破裂するようにヒスイの耳へ届いた。マルシムの瞳が大きく開かれる。





 ジルバ班は洞窟を監視していた。盗賊の出入りは確認済みで、不審な点はなかった。混沌の魔団の影など、どこを見てもない。しかし、監視を始めた時から、すでにジルバ班は盗賊に見つかっていたのだ。そして、急襲された。


「ジルバ班長、数が多すぎます! オーガまでいます!」


 盗賊団はジルバ班を完全に包囲していた。その中にはオーガまでいる。腰巻き一枚の巨体は、ジルバの二倍はあるだろうか。咆哮とともに、何かが叩き潰される鈍い音が響いた


「雷を使う!」


 ジルバの声とともに、パチンと乾いた音が弾ける。班員たちは反射的に身をかがめた。しかし、


「防がれた?」


 ジルバの雷撃は、オーガに届く前に霧散した。魔法を散らせることのできる手練れがいるのだ。


「くそっ……突破陣を敷く。早く!」


 ジルバは監視の甘さを悔いながらも、即座に指示を飛ばした。そして、飛びかかってきた盗賊の腕を切り落とし、すぐさまロングソードに魔素を流し込む。ロングソードが淡く発光した。


「いくぞ!」


 低い声に、班員が緊張した。





 マルシムは驚愕のあまり、風魔法を解いてしまった。途端、剣戟の鋭い音が遠のき、川のせせらぎが戻ってくる。


「マルシムはミツイと合流して、フセルニア副団長へ報告。指示を仰いで!」

「ヒスイさんは? 一緒に……」


 行きましょうよ、と言いかけたマルシムの言葉は、ヒスイの表情に凍りついた。———なんて厳しい目だろう。


「私はジルバ班に合流します。一刻を争う。急いで!」


 珍しく鋭い声だった。マルシムは思わず背筋を伸ばした。


「わ、わかりました。……無理しないでください!」


 マルシムは踵を返し、走り出す。


「よし!」


 ヒスイは地面に落ちていた拳大の石を拾いあげ、魔素を流し込む。複数の石がふわりと浮かんだ。

 ヒスイは魔法の成功を確認すると、レイピアを抜いて走り出した。

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