第3話 ヒールの心理戦(マインドゲーム)
1
金曜日の夜。
恵里香は、タッパーに詰めた手作りのおにぎりとお茶を持って、健一の職場近くの居酒屋に向かっていた。
淡いブルーのカーディガンに、白いブラウス。清楚で控えめな装い。
手には、可愛らしいリボンのついた包み。
完璧な、心配性の妻。
居酒屋の前に着くと、恵里香は深呼吸をした。
そして、顔に笑顔を貼り付ける。
優しく、穏やかで、何の悪意もない笑顔。
ガラガラと引き戸を開ける。
「あの、すみません。川村健一の妻なんですけど……」
店員が、奥の座敷を指差した。
「ああ、川村さんなら、あちらで……」
「ありがとうございます」
恵里香は、会釈をして奥へと向かった。
座敷では、健一と同僚たち五人ほどが、酒を飲みながら盛り上がっていた。
「いやー、マジで課長、あの時の話、最高でしたよ!」
「ははは、あれはな……」
その輪の中に、健一もいる。
恵里香の姿を見た瞬間、健一の顔が固まった。
「あ……恵里香……?」
「お疲れ様です」
恵里香は、満面の笑みで健一に近づいた。
「夜遅くまで、お仕事ご苦労様です。皆さんも、いつも主人がお世話になってます」
同僚たちが、一斉に恵里香を見た。
「おお、川村の奥さん!」
「初めまして! いつも川村がお世話になってます」
恵里香は、丁寧に頭を下げた。
「こんな時間に来ちゃって、すみません。でも、主人、最近帰りが遅くて心配で……差し入れ、持ってきちゃいました」
恵里香は、包みを開いた。
中には、手作りのおにぎりと、温かいお茶が入っている。
「うわ、手作り! 川村、いい奥さんだな!」
「羨ましいわー」
同僚たちが、口々に褒める。
健一は、引きつった笑顔で恵里香を見た。
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして」
恵里香は、健一の隣に座った。
そして、さりげなく――健一の腕に、手を添える。
その瞬間、健一の身体がビクリと震えた。
恵里香の指が、健一の腕の急所を、軽く押さえている。
痛みはない。
だが、何か――得体の知れない圧力が、健一の神経を走る。
「ねえ、あなた」
恵里香は、優しく微笑んだ。
「最近、愛人さんとの時間、楽しんでますか?」
その瞬間、座敷の空気が凍った。
「……え?」
同僚たちが、顔を見合わせる。
「あ、愛人……?」
「ええ」
恵里香は、何でもないように答えた。
「主人、いつも『愛人さんとの時間が楽しい』って、家で話してくださるんです。だから、私も応援してるんですよ」
健一の顔が、蒼白になった。
「え、ちょ、恵里香……!」
「あ、もしかして内緒でしたか?」
恵里香は、口に手を当てた。
「ごめんなさい。てっきり、皆さんもご存知かと……」
同僚たちの視線が、一斉に健一に向けられる。
「川村……お前、マジで……?」
「い、いや、これは……」
健一が、言い訳をしようとする。
だが、恵里香は続けた。
「でも、大丈夫ですよ。私、全然気にしてないんです」
恵里香は、満面の笑みで言った。
「だって、主人が幸せなら、それが一番ですから」
その笑顔は、あまりにも優しく――そして、あまりにも恐ろしかった。
同僚たちは、何も言えなくなった。
この女性は、本当に気にしていないのか。
それとも――何か、別の感情を隠しているのか。
「じゃあ、お邪魔しました」
恵里香は、立ち上がった。
「皆さん、これからも主人をよろしくお願いしますね」
そう言って、恵里香は居酒屋を後にした。
残された座敷には、気まずい沈黙が流れる。
「……川村、お前、大丈夫か?」
同僚の一人が、心配そうに尋ねた。
健一は、何も答えられなかった。
ただ、恵里香が触れた腕を、震える手で押さえることしかできなかった。
2
その夜、健一が帰宅すると、恵里香はリビングでお茶を飲んでいた。
「お帰りなさい」
恵里香の声は、いつも通り穏やかだった。
「お、おう……」
健一は、恐る恐る靴を脱いだ。
「今日、職場に来ただろ」
「ええ。心配だったので」
「心配って……」
健一は、言葉を詰まらせた。
「お前、あんなこと言って……俺、職場で何て思われるか……」
「あら」
恵里香は、首を傾げた。
「何か、問題でしたか? 私、本当のことしか言ってませんけど」
「本当のことって……」
「あなた、愛人さんがいるでしょう?」
恵里香は、お茶を一口飲んだ。
「それを皆さんに知ってもらっただけです」
「お、お前……!」
健一が、恵里香に詰め寄ろうとした。
その瞬間――健一の身体が、止まった。
恵里香が、ただじっと健一を見ている。
その目に、リングライトが浮かんでいる。
「……どうぞ」
恵里香は、微笑んだ。
「何か、おっしゃりたいことがあるなら、聞きますよ」
健一の喉が、動かなかった。
言葉が、出ない。
ただ、恐怖だけが、全身を支配する。
「……何もないなら、お風呂、沸いてますよ」
恵里香は、立ち上がった。
「ゆっくり入ってきてください」
そう言って、恵里香は寝室へと消えていった。
健一は、その場に立ち尽くした。
自分の妻が――何を考えているのか。
何をしようとしているのか。
全く、分からなかった。
3
翌日。
恵里香は、小さな郵便局にいた。
手には、小包。
宛名は、「神崎リナ様」。
恵里香は、小包を窓口に差し出した。
「これ、お願いします」
「はい。匿名配送ですね」
局員が、小包を受け取った。
恵里香は、料金を支払い、郵便局を後にした。
小包の中には――十年前、煉獄のエリカが使っていたサイン入りのリストバンドと、試合のポスターが入っている。
そして、一枚のメッセージカード。
「神崎美咲さんのこと、覚えてますか? ――煉獄のエリカより」
恵里香は、小さく微笑んだ。
「さて、リナさん。あなたの心の傷、少し刺激させてもらうわね」
4
数日後。
リナのアパートに、小包が届いた。
差出人名は、書かれていない。
リナは、不審に思いながらも、小包を開けた。
中身を見た瞬間――リナの顔が、蒼白になった。
「え……嘘……」
震える手で、リストバンドを取り上げる。
黒いレザー素材。
そこには、金色の刺繍で「煉獄のエリカ」の文字。
そして、ポスター。
十年前のクリスマス。
ノーロープ有刺鉄線デスマッチ。
プラチナブロンドの髪を振り乱し、凶悪な笑みを浮かべるエリカと――恐怖に怯える、リナの姉・美咲の姿。
「なんで……なんで、こんなものが……」
リナの手が、震えた。
そして、メッセージカードを見た。
「神崎美咲さんのこと、覚えてますか? ――煉獄のエリカより」
煉獄のエリカ。
姉を壊した、憎い女。
その名前を見た瞬間、リナの中で何かが弾けた。
「エリカ……!」
リナは、スマートフォンを取り出した。
震える指で、姉の番号を探す。
だが――かけることができなかった。
姉は、あの試合以来、プロレスの話を一切しなくなった。
エリカの名前を出すことすら、タブーになっている。
リナは、床に座り込んだ。
「なんで……なんで今、こんなものが……」
リナの目に、涙が浮かんだ。
そして――ふと、ある考えが浮かんだ。
「もしかして……エリカが、私の復讐に気づいた……?」
リナの背筋が、凍った。
「でも、どうやって……私、健一さんの奥さんには会ったことないし……」
リナの脳裏に、あの夜の光景が蘇る。
健一の家。
清楚で、地味な妻。
女子プロレスの写真を、馬鹿にした時――あの女性の表情が、一瞬だけ、変わった気がした。
「まさか……」
リナは、スマートフォンで検索を始めた。
「煉獄のエリカ 引退後」
検索結果には、ほとんど情報がない。
エリカは、十年前に突然引退し、そのまま姿を消した。
だが――ある掲示板に、こんな書き込みがあった。
「煉獄のエリカ、本名は『川村恵里香』らしい」
川村。
恵里香。
リナの手から、スマートフォンが滑り落ちた。
「嘘……嘘でしょ……」
リナの顔が、恐怖に歪んだ。
「健一さんの奥さんが……エリカ……?」
リナは、自分の頭を抱えた。
全てが、繋がった。
あの清楚な主婦。
あの、何の抵抗もしない女性。
それが――姉を壊した、煉獄のエリカだった。
「私……復讐しようとしてたのに……相手が……」
リナの身体が、震えた。
恐怖と、後悔と、そして――絶望。
「どうしよう……どうしよう……」
5
その夜。
健一が、恵里香に詰め寄った。
「おい、お前……リナに何か送っただろ!」
「リナさん?」
恵里香は、料理の手を止めずに答えた。
「ああ、あなたの愛人さんですね。何か送りましたっけ?」
「とぼけんな! リナが怯えてるんだよ! お前が何かしたんだろ!」
健一が、恵里香の腕を掴もうとした。
その瞬間――。
恵里香の手が、健一の手首に触れた。
軽く。
ただ、二本の指で、手首の内側に触れただけ。
だが――。
「あ……痛っ……!」
健一の顔が歪んだ。
痛みではない。
何か、神経を直接刺激されるような、嫌な感覚。
「神経を軽く圧迫しただけですよ」
恵里香は、穏やかに言った。
「5秒で痺れは取れます。ほら」
恵里香の指が離れた。
途端に、健一の腕がだらんと垂れ下がる。
力が、入らない。
「な、何だよ……これ……」
「ツボです」
恵里香は、微笑んだ。
「人体には、365のツボがあるんです。そのうち、36個は急所。適切に刺激すれば、相手を無力化できます」
恵里香の目が、健一を見据えた。
「暴力なんて、振るってないでしょ?」
健一は、後ずさった。
恵里香は、何もしていない。
ただ、触れただけ。
だが――健一の本能が、叫んでいる。
この女性は、危険だ。
絶対に、逆らってはいけない。
「次、私に手を上げようとしたら」
恵里香は、包丁を手に取った。
野菜を切りながら、何でもないように言った。
「今度は、もう少し深いツボを押しますね」
トントントン、と規則正しく野菜を刻む音。
その音が、まるで――処刑のカウントダウンのように、健一の耳に響いた。
「わ、わかった……もう、しないから……」
「良かった」
恵里香は、満面の笑みを浮かべた。
「ご飯、もうすぐできますから。手、洗ってきてくださいね」
健一は、逃げるように洗面所へと向かった。
一人になった恵里香は、小さく呟いた。
「さて、包囲網は完成ね」
恵里香は、スマートフォンを取り出した。
画面には、弁護士からのメッセージ。
「証拠、完璧です。いつでも訴訟準備できます」
恵里香は、スマートフォンを置いた。
そして、窓の外を見る。
夜空には、満月が浮かんでいた。
「次はメインイベント」
恵里香の瞳に、リングライトが浮かぶ。
「親族の前で、一切暴力を使わずに、全部、終わらせましょうか」
恵里香の唇が、ゆっくりと歪んだ。
ヒールの、冷たい笑み。
「健一さん、リナさん」
恵里香は、包丁を置いた。
「あなたたちが始めたのは、場外乱闘」
恵里香の首が、コキリと鳴った。
「なら、リングに戻れるなんて、思わないことね」
その瞬間――窓ガラスに映る恵里香の姿の後ろに、プラチナブロンドのショートヘア、黒いレザージャケットを纏った『煉獄のエリカ』の姿が、一瞬だけ重なった。
そして、消える。
恵里香は、料理を再開した。
トントントン、と包丁の音が、静かに響く。
その音は――リングのゴングのように。
試合開始の、合図のように。
響き続けた。
〈第3話 了〉
次回、第4話「デスマッチの開幕(リングは日常に)」
――舞台は夫の実家での法事。親族一同が集まる「逃げ場のないリング」。恵里香は完璧な嫁を演じながら、全ての証拠を親族の前に晒す。そして、会場に現れたのは――十年前のライバル、神崎美咲だった――
次の更新予定
『煉獄のエリカ』~清楚な妻の正体は、伝説の最凶プロレスラーでした~ 【不倫・スカッと・復讐】夫と愛人が「動く家具」と私を罵った瞬間、氷の処刑人の封印が解ける ソコニ @mi33x
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