第2話 処刑人の準備(セコンド)
1
朝日が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
キッチンからは、味噌汁の香りと、焼き魚の匂い。そして、ご飯の炊ける音。
恵里香は、いつもと変わらぬ朝食の準備をしていた。
白いエプロンを身につけ、丁寧に箸を並べる。夫の好きな納豆も、小鉢に入れて用意した。コーヒーカップも、夫が気に入っている青い陶器のものを選ぶ。
全てが、いつも通り。
まるで、昨夜のことなど、何もなかったかのように。
「お、おはよう……」
寝室から現れた健一の声は、わずかに震えていた。
恵里香は、振り返って微笑んだ。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
その笑顔は、いつもと同じ。清楚で、優しくて、何の影もない。
健一は、恐る恐る椅子に座った。恵里香の表情を窺うように、チラチラと視線を向けている。
「あ、あのさ……昨日のことなんだけど……」
「昨日?」
恵里香は、味噌汁を椀に注ぎながら首を傾げた。
「ああ、お酒のせいですよね。あなた、酔っぱらって自分で転んじゃって」
「……え?」
「大丈夫でしたか? どこか痛めませんでした?」
恵里香は、心配そうな顔で健一の肩に手を置いた。
その瞬間、健一の身体がビクリと震える。
昨夜のことが、フラッシュバックする。恵里香の指が肩に触れた時の、あの得体の知れない感覚。
「だ、大丈夫……」
「そう、良かった」
恵里香は、何事もなかったように手を離し、朝食をテーブルに並べた。
「さ、冷めないうちにどうぞ」
健一は、箸を手に取った。だが、手が震えて、うまく持てない。
恵里香は、それを見て、小さく微笑んだ。
その微笑みを、健一は見逃さなかった。
優しい微笑み。だが、その奥に――何かが、潜んでいる。
「い、いただきます……」
健一は、急いで朝食を口に運んだ。早く食べて、早くこの場を離れたい。そんな気持ちが、ありありと表情に出ている。
「ゆっくり食べてくださいね」
恵里香は、コーヒーを淹れながら言った。
「あ、そういえば」
「な、何?」
「昨日、リビングにあった写真、覚えてますか?」
健一の箸が、止まった。
「私の、昔の写真」
恵里香の声が、わずかに低くなる。
「『ゴリラの見世物』って、おっしゃってましたよね」
「あ、あれは……」
「冗談ですよ」
恵里香は、クスリと笑った。
「でも、あの写真、私にとってはとても大切なものなんです。だから、もう二度と、馬鹿にしないでくださいね」
その言葉は、優しい。
だが、その優しさの裏に、何か冷たいものがある。
健一は、黙って頷いた。
恵里香は満足そうに微笑み、自分もコーヒーを飲み始めた。
そして、健一が気づかぬように――テーブルの下で、スマートフォンを取り出した。
画面には、ボイスレコーダーのアプリが起動している。
録音中。
今の会話も、全て記録されている。
恵里香は、心の中で呟いた。
(試合の準備は、すでに始まってる)
2
健一が出勤した後、恵里香は一人、リビングに座っていた。
膝の上には、ノートパソコン。画面には、複数のウィンドウが開かれている。
クレジットカードの明細。
GPSの履歴。
そして、昨夜の防犯カメラの映像。
恵里香の家には、玄関とリビングに小型カメラが設置されている。防犯のために設置したものだったが、今はそれが、最高の証拠になっていた。
映像を再生する。
健一が、愛人を連れて帰ってくるシーン。
料理を床に叩きつけるシーン。
そして――健一が、恵里香の頭を足で踏みつけようとするシーン。
全て、鮮明に映っている。
「完璧ね」
恵里香は、映像を一時停止した。
健一の足が、恵里香の頭に迫る、その瞬間の画像。
これがあれば、暴行未遂として十分に立証できる。
恵里香がその後、正当防衛として健一の足首に触れたことも、映像には映っている。だが、それはあくまで「身を守るため」。そして、健一が勝手に転倒したことも、はっきりと記録されている。
「プロレスでは、試合前の準備が全てを決める」
恵里香は、ノートパソコンを閉じた。
「相手を分析して、自分の有利な状況を作る。それが、セコンドの仕事」
恵里香は、バッグから一枚の名刺を取り出した。
そこには、弁護士の名前が書かれている。
知人の紹介で、離婚問題に強い弁護士だという。
「さて、レフェリーを味方につけましょうか」
3
弁護士事務所は、駅から徒歩五分の場所にあった。
恵里香は、清楚なベージュのスーツに身を包み、事務所のドアを開けた。
「失礼します。予約していた、川村恵里香です」
「ああ、川村さん。お待ちしていました」
応接室に通されると、四十代の女性弁護士が立ち上がった。名前は、高橋真理子。離婚訴訟で数々の実績を持つ、この業界では名の知れた人物だ。
「早速ですが、ご相談の内容をお聞かせください」
恵里香は、バッグからUSBメモリと、数枚の書類を取り出した。
「夫の不貞行為と、私への暴行未遂の証拠です」
高橋弁護士は、USBメモリをパソコンに接続した。映像が再生される。
画面を見る高橋の表情が、徐々に険しくなっていく。
「……これは、ひどいですね」
「はい」
恵里香は、淡々と答えた。
「クレジットカードの明細から、愛人とのホテル代も特定できています。日時、場所、全て記録してあります」
高橋は、書類に目を通した。そこには、健一の不貞行為の証拠が、時系列順に整理されている。写真、レシート、GPSの履歴。全てが、完璧なまでに揃っていた。
「川村さん……これは、素晴らしい準備ですね」
「ありがとうございます」
恵里香は、微笑んだ。
「私、昔、プロレスラーだったんです。試合前の準備の大切さは、よく分かっているんです」
「プロレスラー……?」
高橋が、少し驚いたように恵里香を見た。
「はい。でも、今は引退しています」
「そうですか」
高橋は、再び映像を見た。健一が足を振り上げる場面。
「この場面ですが……川村さんは、正当防衛として対応されましたね」
「はい。私、夫の足首に触れただけです。そのあと、夫が勝手にバランスを崩して転びました」
「……触れただけ、ですか」
高橋の目が、わずかに細められた。
「ええ」
恵里香は、真っ直ぐに高橋を見た。
「先生、昨夜の件は、正当防衛として認められますか?」
「もちろんです」
高橋は、力強く頷いた。
「むしろ、ご主人が暴行未遂で訴えられる立場ですよ。川村さんは、被害者です」
「良かった」
恵里香は、安堵の息を吐いた。
「実は、少し心配だったんです。私、プロレスをやっていたので、もし本気で夫の足を掴んでいたら……足首、砕けてましたから」
高橋の動きが、止まった。
「……砕けて、ですか?」
「ええ」
恵里香は、何でもないように答えた。
「アンクルホールドという技があるんです。足首の関節を極めて、相手を降参させる。プロレスでは基本の技ですけど、本気でやったら骨が折れます」
「……」
高橋は、わずかに冷や汗をかいた。
「で、でも、川村さんはそれをしなかったわけですよね?」
「もちろんです」
恵里香は、微笑んだ。
「私、もう十年も誰も殴ってませんし、技もかけてません。ただ……」
恵里香の目が、わずかに細められた。
「相手に**『やられるかも』**と思わせるだけで、人は勝手に怯えるものなんです。それが、ヒール――悪役の仕事でしたから」
高橋は、恵里香をじっと見た。
清楚なスーツに身を包んだ、この女性。
だが、その奥に、何か――計り知れない強さが、潜んでいる。
「……川村さん、離婚訴訟、確実に勝てます」
高橋は、書類をファイルに綴じながら言った。
「慰謝料も、財産分与も、全てこちらの有利に進められます。安心してください」
「ありがとうございます」
恵里香は、深く頭を下げた。
「では、準備を進めさせていただきます。また連絡しますね」
「はい。よろしくお願いします」
恵里香は、事務所を後にした。
エレベーターの中で、恵里香は小さく呟いた。
「レフェリーは、味方についた」
恵里香の瞳に、わずかにリングライトが浮かんだ。
「次は、相手の分析ね」
4
カフェのテラス席。
恵里香は、ノートパソコンを開いていた。
画面には、SNSのページ。
愛人――リナのアカウントだ。
派手な自撮り写真。高級レストランでの食事。ブランド品のバッグ。
典型的な、承認欲求の強い女性のアカウント。
恵里香は、スクロールしながら情報を集めていく。
リナの投稿には、健一との密会の痕跡が、いくつも残っていた。もちろん、健一の顔は映っていないが、背景や時間帯から、十分に特定できる。
「馬鹿ね。証拠を自分から晒してるなんて」
恵里香は、冷たく呟いた。
だが、次の瞬間――恵里香の手が、止まった。
リナのプロフィール欄に、一つのリンクがあった。
「姉のトレーナー活動を応援しています」
恵里香は、そのリンクをクリックした。
画面に現れたのは、別のアカウント。
名前は、「神崎美咲」。
職業は、プロレストレーナー。
そして、プロフィール画像には――赤い髪の、凛々しい女性が写っていた。
恵里香の呼吸が、止まった。
「……嘘」
恵里香は、震える手で画像を拡大した。
その顔に、見覚えがある。
十年前。
あの、クリスマスの夜。
ノーロープ有刺鉄線デスマッチで、恵里香と対戦した――かつてのライバル。
女子プロレス界の「絶対的ベビーフェイス」と呼ばれた、正義のヒロイン。
神崎美咲。
「リナは……美咲さんの、妹……?」
恵里香の脳内で、パズルのピースが嵌っていく。
リナが健一に近づいたのは、偶然ではない。
復讐だ。
姉を精神的に追い詰めた、煉獄のエリカへの復讐。
だが、リナは知らない。
自分が復讐しようとしている相手が、今、目の前の「地味な主婦」だということを。
恵里香は、ノートパソコンを閉じた。
コーヒーカップを手に取り、一口飲む。
そして――小さく、笑った。
「なるほどね」
恵里香の目が、細められる。
「これは、単なる不倫じゃない」
恵里香は、バッグから手帳を取り出した。
そこには、弁護士の連絡先、証拠の一覧、そして――今後のスケジュールが、びっしりと書き込まれている。
「美咲さんの妹か……」
恵里香は、ペンを手に取った。
「なら、この試合は、因縁のリマッチってわけね」
恵里香は、手帳に新しい項目を書き加えた。
「神崎美咲との接触」
恵里香は、手帳を閉じた。
そして、立ち上がり、カフェを後にする。
その足取りは、どこか軽やかだった。
5
夜。
恵里香は、寝室の鏡の前に座っていた。
手には、小さな箱。
その中には、プラチナブロンドのショートヘアのウィッグが入っている。
十年間、封印してきたもの。
恵里香は、そっと箱を開けた。
金色の髪が、照明に反射して輝く。
恵里香は、ウィッグを手に取った。
その感触が、懐かしい。
かつて、この髪で、リングに立っていた。
観客の怒号と歓声。
対戦相手の恐怖に歪んだ顔。
そして、自分自身の、狂気的な高揚感。
全てを、思い出す。
「……私、本当に、あの頃に戻ろうとしてるのかな」
恵里香は、鏡に映る自分を見た。
黒髪のロング。清楚なナイトウェア。何の変哲もない、普通の主婦。
だが、その瞳の奥には――リングライトが、微かに光っている。
「いいえ」
恵里香は、首を振った。
「戻るんじゃない。還るのよ」
恵里香は、ウィッグを頭に乗せようとした。
だが――その手が、止まった。
「……まだ、早いわね」
恵里香は、ウィッグを箱に戻した。
「プロレスは、入場が大事。観客を最高に盛り上げて、リングに上がる」
恵里香は、箱を閉じた。
「このウィッグを被るのは、メインイベントの時」
恵里香は、立ち上がった。
窓の外を見る。
夜空に、月が浮かんでいる。
「まずは、第一試合から」
恵里香の唇が、わずかに歪んだ。
「夫と愛人を、ジワジワと追い詰める。周りからは『優しい奥さん』のまま、二人だけを、絶望の淵に突き落とす」
恵里香は、スマートフォンを手に取った。
画面には、リナのSNSが表示されている。
「リナさん。あなたが姉の仇を討ちたいなら、ちゃんと相手を見極めなきゃ」
恵里香の指が、画面をスクロールする。
「あなたが憎むべきは、私。煉獄のエリカ」
恵里香は、スマートフォンを置いた。
そして、鏡の中の自分に向かって、静かに言った。
「リングに、還りましょうか」
その瞬間――。
鏡の中の恵里香の後ろに、プラチナブロンドのショートヘア、黒いレザージャケットを纏った『煉獄のエリカ』の姿が、一瞬だけ重なった。
そして、消える。
恵里香は、部屋の電気を消した。
暗闇の中、恵里香の瞳だけが――リングライトのように、四つの光を宿して、静かに輝いていた。
「試合は、もう始まってる」
恵里香の声が、闇に溶けていく。
「そして、私は――3カウント聞くまで、止まらない」
窓の外で、月が雲に隠れた。
寝室は、完全な闇に包まれる。
だが、その闇の中で――恵里香は、確かに微笑んでいた。
ヒールの、冷たい微笑みを。
〈第2話 了〉
次回、第3話「ヒールの心理戦(マインドゲーム)」
――恵里香は「清楚な仮面」を保ったまま、二人を追い詰め始める。夫の職場、愛人の交友関係、全てに「優しい奥さん」として介入しながら、ジワジワと包囲網を狭めていく。そして、リナに送られた一通の小包には――
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