『煉獄のエリカ』~清楚な妻の正体は、伝説の最凶プロレスラーでした~ 【不倫・スカッと・復讐】夫と愛人が「動く家具」と私を罵った瞬間、氷の処刑人の封印が解ける

ソコニ

第1話 聖女の仮面、砕け散る夜

1

 キッチンから漂う甘い香りが、リビングまで優しく満ちていく。


 恵里香は白いエプロンをつけ、コンロの前に立っていた。鍋の中では、夫の好物であるビーフシチューが、ことことと音を立てている。三年前の今日、二人は結婚した。あの日、夫は「君のシチューが世界で一番美味しい」と言ってくれた。


 その言葉を信じて、今日まで作り続けてきた。


「もうすぐ帰ってくるかな」


 恵里香は時計を見上げた。午後八時。いつもならとっくに帰宅している時間だ。テーブルには、真っ白なクロスを敷き、ワイングラスを二つ並べた。サラダも、パンも、デザートのケーキも、全て用意は整っている。


 鏡に映る自分を見た。


 黒髪のロングヘアを丁寧にブラッシングし、控えめなメイク。淡いピンクのワンピースは、夫が「清楚で好きだ」と言ってくれたものだ。


 完璧だ。


 完璧な妻。完璧な笑顔。完璧な、優しさ。


 恵里香は、そうあろうと努めてきた。誰も傷つけない。誰にも恐れられない。透明で、穏やかで、何の波風も立てない存在。


 それが、恵里香が選んだ人生だった。


 ガチャリと玄関のドアが開く音がした。


「お帰りなさい!」


 恵里香は笑顔で玄関に向かった。エプロンを外し、髪を整える。夫を迎える、完璧な妻の顔で――。


 だが、玄関に現れたのは、夫だけではなかった。


「うっせぇな、黙ってろって」


 夫・健一の腕には、見知らぬ女性が絡みついていた。派手なメイク、露出の多い服。強い香水の匂いが、シチューの香りをかき消していく。


「あら、これが奥さん? 地味ぃ〜」


 女性――愛人は、恵里香を上から下まで見て、くすくすと笑った。


「あ、あなた……」


 恵里香の声が震える。だが、健一は恵里香を一瞥すらせず、リビングへとずかずかと入っていく。


「健一さん、記念日、なんですけど……」


「あ? あぁ、そんなのあったな」


 健一は酒臭い息を吐きながら、ソファに倒れ込んだ。愛人も、まるで自分の家であるかのように、隣に座る。


「せっかく、ビーフシチュー作ったんです。あなたの好きな……」


「シチュー? あんなもん、今更食えるかよ」


 健一は鼻で笑った。


「それより、酒持ってこい。高いやつ」


「で、でも……」


「聞こえなかったか? 酒、持って来いって言ってんだよ」


 恵里香は震える手で、ワインセラーから高級ワインを取り出した。夫婦の記念日のために、少しずつ貯めたお金で買ったものだ。


 グラスに注ごうとした瞬間、健一が手を伸ばし、ボトルごと奪い取る。


「グラスなんていらねぇよ。こいつと飲むんだから」


 愛人が嬌声を上げる。二人でボトルを回し飲みする様子を、恵里香はただ、立ち尽くして見ていた。


「あの、お食事、冷めちゃいますから……」


「食事?」


 健一が、テーブルの上の料理を見た。その目には、何の温かさもない。


「こんな味気ねぇもん、誰が食うかよ」


 そう言って、健一は皿を――シチューの入った皿を、床に叩きつけた。


 ガシャン、という音。


 茶色い液体が、白いカーペットに広がっていく。三時間かけて煮込んだ、柔らかい牛肉。丁寧に刻んだ野菜。全てが、床の上で無残に散らばっている。


「あ……」


 恵里香の膝が震えた。だが、涙は出なかった。涙すら、出せなくなっていた。


「お前さ、いつもいつも、こういう地味な料理ばっか作るよな」


 健一は、床に散らばったシチューを靴で踏みつけた。


「味が薄いんだよ、お前みたいに。食う価値ねぇわ」


「けんい……ち、さん……」


「こいつ見ろよ」


 健一は愛人を指差した。


「こいつはプロのモデルだぞ? 華があって、明るくて、男を楽しませてくれる。それに比べてお前は何だ? ただの、動く家具じゃねぇか」


 動く、家具。


「反論もしない、面白みのない女。なぁ、少しは抵抗してみろよ? 殴っても無抵抗なサンドバッグの方が、まだマシだぜ」


 サンドバッグ。


 その言葉が、恵里香の耳に残った。


「あ、これ何?」


 愛人が、リビングの棚に飾ってあった写真立てを手に取った。小さな額縁。その中には、後ろ姿の女性が写っている。プラチナブロンドのショートヘア。黒いレザーのジャケット。リングを背にして立つ、誰かの背中。


「うわ、趣味悪っ! もしかして、女子プロレスとか見てたの?」


 愛人の声が、甲高く響く。


「キモい。あんなの、汗臭い女が取っ組み合って、知性のかけらもない見世物じゃない。よくこんなの飾ってるね」


 恵里香の拳が、わずかに震えた。


「ほんとそれな」


 健一も笑いながら言った。


「あんなゴリラ女たちと一緒にすんなよ。恵里香はゴリラですらねぇ、ただの死んだ魚だ」


 二人の笑い声が、部屋に響く。


 恵里香は、ゆっくりと床に膝をついた。散らばったシチューを、手で集め始める。カーペットが汚れている。拭かなければ。片付けなければ。


「おい、何やってんだ」


「お掃除を……」


「掃除?」


 健一が、恵里香の前にしゃがみ込んだ。酒と香水の混ざった、吐き気のする匂い。


「もったいないから、お前が床から舐めて片付けろよ」


 恵里香の動きが、止まった。


「な、舐めて……?」


「そうだよ。お前が作ったんだろ? 責任持って、最後まで食えよ」


 健一の目が、笑っている。


 愛人も、スマートフォンのカメラを恵里香に向けていた。


「ねぇねぇ、やったら動画撮ってあげる。バズるかもよ?」


 恵里香は、何も言えなかった。


 言葉が、出ない。


 抵抗する力が、出ない。


 ただ、ただ――。


「おら」


 健一が、恵里香の頭を掴んだ。


 床に、押し付けようとする。


 そして、その手が離れた瞬間、健一は――靴を履いた足を、恵里香の頭に向けて、踏み下ろそうとした。


2

 その瞬間、世界が止まった。


 いや、違う。


 世界は動いているのに、恵里香の中で、何かが――止まっていたはずの何かが、動き出した。


 夫の足が、自分の頭に迫る。


 その軌道が、スローモーションで見える。


 重心の位置。筋肉の緊張。バランスの偏り。全てが、まるで透けて見えるように、恵里香の脳に流れ込んできた。


 そして、気づいた時には――恵里香の手が、健一の足首を掴んでいた。


「え?」


 健一の声。


 困惑している。何が起きたのか、理解できていない声。


 恵里香も、理解できていなかった。


 身体が、勝手に動いた。


 まるで、十年前にリングの上で、何千回、何万回と繰り返した動作のように。自然に。流れるように。完璧に。


 恵里香の指が、健一の足首の急所を、正確に捉えていた。


 少し力を入れれば、関節が悲鳴を上げる位置。神経を圧迫すれば、痺れが走る場所。そして、重心を崩せば――。


 恵里香は、そっと手を離した。


 途端に、健一の身体がバランスを失った。前のめりに、そして――ドサリ、と床に倒れ込む。


「いって……! 何だよ、痛ぇ!」


 健一が床の上で呻いた。だが、恵里香は何もしていない。ただ、手を離しただけだ。健一が勝手に倒れただけだ。


「何すんだよ、てめぇ!」


「……」


 恵里香は、自分の手を見た。


 震えていない。


 十年ぶりに、震えていなかった。


 ああ、と恵里香は思った。


 ああ、そうだ。


 私の身体は、覚えている。


 相手の重心。筋肉の緊張。次の動き。全部、読める。全部、止められる。


 全部――壊せる。


 恵里香の瞳から、光が消えた。


 代わりに、その奥に、四つの光が浮かび上がる。


 リングを照らす、四隅の照明。


 リングライト。


 十年間、封印してきたはずの、あの光。


「お、おい、恵里香……?」


 健一の声が、わずかに震えている。


 恵里香は、ゆっくりと立ち上がった。


 淡いピンクのワンピースは、床のシチューで汚れている。髪も乱れている。だが、その姿は――どこか、違っていた。


 背筋が伸びている。


 肩の力が抜けている。


 そして、その目に、何の迷いもない。


「ねぇ」


 恵里香の声が、低く響いた。


 いつもの、か細い声ではない。


 もっと、芯のある声。


「さっき、『抵抗しろ』って言ったわよね」


 健一が、後ずさりした。愛人も、スマートフォンを落としそうになっている。


「私ね、リングの上では、一度も手加減したことないの」


 恵里香の首が、コキリ、と鳴った。


 右に傾け、左に傾け。まるで、試合前のウォーミングアップのように。


 その音を聞いた瞬間、健一の顔が青ざめた。


「お、おい、何だよその目……」


「あなたたち、知らないでしょうけど」


 恵里香は、床に落ちた写真立てを拾い上げた。


 プラチナブロンドの後ろ姿。リングを背にした、あの女性。


「この人、私なの」


 愛人が、息を呑んだ。


「十年前、女子プロレス界で、『煉獄のエリカ』って呼ばれてた」


 煉獄のエリカ。


 その名前を聞いた瞬間、愛人の顔色が変わった。


「え……嘘……」


「別名、『氷の処刑人』」


 恵里香は、写真立てをテーブルに置いた。


「相手を、容赦なく追い詰めて、精神的に壊すことで有名だったの」


 健一が、立ち上がろうとする。だが、恵里香が一歩踏み出しただけで、その動きが止まった。


 恐怖。


 本能が、告げている。


 この女性は、危険だ、と。


「でもね、私、あることがあって引退したの」


 恵里香の声が、少しだけ柔らかくなった。


「自分の暴力性が、怖くなったから。人を壊す自分が、嫌になったから。だから、全部封印したの。名前も、技も、強さも」


 恵里香は、健一を見下ろした。


「誰も傷つけない。誰にも恐れられない。そういう人間になろうと、十年間、頑張ってきたの」


 そして――恵里香の唇が、わずかに歪んだ。


「でも、あなたたちが、檻を壊したのよ」


 恵里香の指が、そっと健一の肩に触れた。


 ただ、触れただけ。


 だが、健一の身体が、ビクリと震えた。


「あ、の……ごめん、俺、酔ってて……」


「大丈夫」


 恵里香は、微笑んだ。


 その笑顔は、恐ろしいほど、優しかった。


「暴力なんて、振るわないわ。私、もう十年も、誰も殴ってないもの」


 健一が、安堵の息を吐きかけた。


 その瞬間――。


「でもね」


 恵里香の指が、健一の肩の急所を、ほんの少しだけ、押し込んだ。


「技を決めなくても」


 健一の顔が歪む。痛みではない。何か、得体の知れない感覚が、身体を走る。


「相手を這いつくばらせる方法」


 恵里香の手が、離れた。


 健一の腕が、だらんと垂れ下がる。


「たくさん、知ってるから」


 恵里香は、愛人にも視線を向けた。


 愛人は、完全に固まっている。


「あなたたちが始めたのは、場外乱闘」


 恵里香の声が、リビングに響く。


「ルール無用の、デスマッチ」


 恵里香は、床に散らばったシチューを見た。


「なら、覚悟してね」


 恵里香の瞳の中で、リングライトがさらに強く輝いた。


「私、3カウント聞くまでは、我慢できない性質(タチ)だったわ」


 健一と愛人が、互いを見た。


 逃げるべきか。


 だが、もう遅い。


 試合は、始まってしまったのだから。


「後悔しないでよ」


 恵里香は、汚れたワンピースの裾を翻した。


 その背中に、一瞬だけ――プラチナブロンドのショートヘア、黒いレザージャケットを纏った、『煉獄のエリカ』の姿が重なって見えた。


 そして、恵里香は静かに言った。


「私、技を決めなくても、相手を這いつくばらせる方法、たくさん知ってるから」


 その言葉を残して、恵里香は寝室へと消えていった。


 残されたリビングには、酒臭い夫と、震える愛人。


 そして、床に散らばったシチューと、割れた皿。


 結婚記念日の夜は、こうして幕を閉じた。


 だが――。


 本当の戦いは、これからだった。


 煉獄のエリカは、リングに還る。


 そして、一度始めた試合を、途中で止めたことは、一度もなかった。


 3カウントが聞こえるまで――。


 試合は、終わらない。


〈第1話 了〉


次回、第2話「処刑人の準備(セコンド)」


――翌朝、何事もなかったように朝食を出す恵里香。だが彼女の手には、ボイスレコーダーと、弁護士の名刺があった。そして、愛人のSNSを調べた恵里香は、衝撃の事実を知る。彼女は、十年前のあの因縁の相手の――

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