プロローグ 第五話

朝が来るのが怖い。

窓の隙間から差し込んでくる薄い光が、わたしの部屋の床に滑る度、心臓がバクバクと嫌な音を立てて、恐怖が忍び寄ってくる。

「……亜矢、起きてる? そろそろ準備しなさい」

母の声が階段の下から聞こえてくる。それは、わたしを絶望に引きずり出す合図だった。

フリースクール。一週間前から毎日、あの場所で見た光景が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。自分の殻に閉じこもった、普通ではない人たち。あの中に混ざることは、わたしにとって、自分が完全に「壊れた人間」だと認めることと同じだった。

行きたくない。

喉まで出かかったその言葉を、わたしは何度も、苦い唾と一緒に飲み込んだ。

前に一度だけ、勇気を振り絞って母に言ってみたことがあった。

「……ママ、やっぱりあそこ、行きたくない」

震える声でそう告げたとき、母の顔からさっと色が消えたのを覚えている。母は、困ったような、少し苛立ったような顔をして、こう言ったのだ。

「じゃあ、元の学校に戻る? 学校か、フリースクールか。どっちかは行かないと、亜矢。ずっと家にいるわけにはいかないのよ。お母さんもお父さんも、ずっとつきっきりではいられないんだから」

その言葉は、優しさを装った最後通牒だった。

学校か、フリースクールか。

わたしには、そのどちらも選ぶことができない。

元の学校に戻れば、また絶望が待っている。

誰も話しかけてくれない教室。わたしが教室に入った瞬間に止まる笑い声。透明人間のように扱われながら、独りぼっちで耐え続ける日々。

想像するだけで、足の先から凍りつくような恐怖が襲ってくる。学校で孤立するのは、もう嫌だ。

あんな思いを今日もするなら、消えたい。

それなら、フリースクールの方がいいのだろうか。

そう考えてみても、どうしても良いと思えなかった。

あそこでも、わたしは結局、孤立している。

みんながそれぞれの闇を抱えて、自分の世界に閉じこもっているあの場所で、わたしはどう振る舞えばいいのか分からない。あそこに通うことは、「普通」への道を完全に断たれることのように思えて、たまらなく惨めだった。

「どっちでもいい」なんて、そんなふうに割り切れたら、どんなに楽だっただろう。

学校も、フリースクールも、どちらもわたしを拒絶しているように感じる。

どちらを選んでも、待っているのは孤独と、誰にも理解されない絶望だ。

母は、分かってくれない。わたしが欲しいのは、居場所より、わたしを見てくれる人なのだ。

母にとっては、わたしが「どこかに所属していること」が安心材料なのだ。

世間の目から見て、娘が「引きこもり」ではないという形が欲しいだけなのだ。わたしの心がどれだけ悲鳴を上げているかなど、二の次なのだ。

父も夜、リビングで母がわたしの不登校について相談していても、新聞を読んだりテレビを眺めたりして、生返事しかしない。

「亜矢の好きにさせればいいだろ」

その言葉は一見、わたしを尊重しているように聞こえるけれど、実際は「自分には関係ない、面倒なことに巻き込むな」という無関心の現れなのは、多分わたしにしか分からない。

はたから見たら、分からない微妙な気づきたくない空気感が、家族だからわかる。

分かりたくない。


家の中にいても、わたしの心は独りぼっちだ。

母はわたしの形だけを整えようとし、父はわたしの存在そのものを無視している。

毎日が、息をするだけで精一杯だ。

朝起きて、行きたくない場所へ行くために着替えて、母の顔色を伺いながら車に乗り込む。

フリースクールの扉を開けるとき、心臓が口から飛び出しそうになるのを必死に抑える。

そして、あの淀んだ空気の中で、ただ時間が過ぎるのを時計の針を見つめて待つ。

辛い。辛い。辛い。

逃げたいのに、逃げる場所がない。

みんな当たり前にある逃げ場所がわたしにはない。

頑張って、頑張って、その先に何があるのだろうか。

明日も明後日も、一年後も、わたしは怯えながら生きているのだろうか。

「……もう、疲れたよ」

部屋の隅で膝を抱え、わたしは小さく呟いた。

期待しているから泣くと聞いたことがある。わたしが泣いているのは誰に期待し待っているのだろう。

胸の真ん中に大きな穴が開いていて、そこから体中の熱が逃げてゆくような感覚がする。

生きていたくない。

そう思うことは、いけないことなのだろうか。みんなそう言うが、どうしたら生きていたいと思えるのだろうか。

こんなに苦しい思いをしてまで守らなければならない「命」なんかに価値があるとは思えなかった。

「死にたい」というよりは、最初からいなかったことになりたい。

誰の記憶にも残らず、誰の重荷にもならず、この世界から溶けて消えたい。

「亜矢! 準備できた?って言ってるでしょ!」

一階から、母の鋭い声が響いて、わたしは、力なく立ち上がった。

鏡に映った自分の顔は、青白くて、生気がなかった。それでも生きてしまったことが辛い。

これが、わたしの現実。

救いも、希望も、逃げ場もない、わたしの現実。

わたしはまた泣きそうになりながら部屋のドアを開ける。

いつ終わるかも分からない長くて暗いトンネルの中を、わたしはまた一人で歩き出さなければならなかった。

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