プロローグ 第六話

木曜日の朝、窓の外は抜けるような青空だったけれど、わたしの心はどしゃ降りの雨の中にいた。

「亜矢、今日は一人で行ってみなさい。ママ、午前中は用事があるから。もう場所も覚えたでしょ?」

キッチンで洗い物をしながら、母が背中でそう言った。その声には、少しずつわたしを「自立」のレールに戻そうとする、焦り混じりの期待が透けて見えている。

そして、その焦りはわたしにもあるからなのか、何も言えない。言うのが怖い。

そして「嫌だ」と言えば、またあの母の、色が消えたような、絶望した顔を見ることになる。やはりそれが一番怖くて、わたしは自分の心を押し殺して、力なく頷くしかなかった。

玄関を出て、最寄り駅まで行くのが怖い。怖くて、止まり止まりになってしまう。引き返したいのに、わたしの母はわたしが自立していないと認めてくれないから、わたしは家に戻るのと、フリースクールに行くのも両方怖くて、四方を囲まれた感覚がした。

電車に乗り込み、ガタンゴトンと規則正しく揺られる車内で、わたしは窓に映る自分の顔を眺めていた。肌が青白くて、焦点の合わない目が二つガラスに反射している。周りの乗客たちは、携帯電話を見たり本を読んだり、それぞれの「日常」を生きている。その光景が、今のわたしにはいちばん羨ましくて、一番遠い。

乗り換えの中央駅に着いたとき、ホームに降り立ち、別の路線へと向かおうとした瞬間、急に世界がぐにゃりと歪んだ。

「……えっ」

心臓が、耳元で鐘を鳴らすように激しく打ち始める。

足の裏がコンクリートの床に、強力な接着剤で張り付いてしまったように、一歩も前に出せなくなった。歩こうと思えば思うほど、足が震えて、膝の力が抜けてゆく。

視界の端が白く明滅し、頭の奥を冷たいナイフでかき回されるような激痛が走った。

「怖い……行きたくない……助けて……」

頭の中で誰かが叫んでいる。喉はカラカラに乾き、全身から嫌な冷や汗が吹き出して、服が肌に張り付いた。

立っていることすら辛くて、わたしは、数歩先にあるベンチに辿り着くことさえできず、柱にすがりつくようにして、通りかかった駅員さんの袖を震える手で掴んだ。

「……あの、すみません……」

「お嬢ちゃん、大丈夫かい? 顔色が真っ青だよ」

駅員さんの驚いた顔が、霞んだ視界の中で揺れている。

「あの……フリースクールに、行くのが、怖くて……。もう、動けそうに、ないんです……」

情けない。知らない大人に、そんなことを口にしている自分が、たまらなく恥ずかしかった。

駅員さんに支えられ、ようやくベンチに腰を下ろす。

冷たい風がホームを吹き抜けてゆくのに、わたしの体は熱に浮かされたように震えが止まらない。

「お母様か、どなたかに、連絡しますか?」

駅員さんが、優しいのに、断らせてくれないような強さで尋ねてきた。

母に連絡する。それは、わたしが「一人でフリースクールに行く」というミッションに失敗したことを認めることだ。また母を落胆させる。また、迷惑をかける。

けれど、一人で立ち上がる力なんて、ない。

行けない。

母に怒られるのがどうでも良くなれないのに、怒られるのも失望されるのも嫌なのに、自分でやり直せない。

「……はい」

絞り出すようなわたしの返事を聞いて、駅員さんは駅務室へ向かい、受話器を取った。

「はい、お母様。娘さんが、大庭東駅で、体調を崩されています。……ええ、精神的なショックが大きいみたいです……」

「精神的なショック」。

受話器越しに漏れ聞こえてきたその言葉が、鋭いトゲになってわたしの胸に突き刺さった。

やはりわたしは、まともではないのだ。

駅員さんにそう説明されてしまうほど、わたしは「普通」からかけ離れてしまったのだ。

その事実を改めて突きつけられて、わたしは絶望の中に立たされた。

三十分後、母は車で迎えに来てくれた。

改札の横でうずくまっていたわたしを見つけると、母は今まで見せたことのないような、複雑な表情を浮かべていた。怒っているわけではない。けれど、悲しんでいるわけでもない。ただ、どうしようもなく途方に暮れたような、そんな顔をしていた。

車に乗り込むと、芳香剤の匂いが鼻をつく。母はハンドルを握ったまま、前を向いてポツリと聞いた。

「亜矢ちゃん。何があって、そんなにフリースクールが嫌なの?」

母の声は驚くほど穏やかだったけれど、それが逆に怖かった。

この一瞬の優しさが、いつか「もう勝手にしなさい」という怒りに変わるのではないか。あるいは、「もうこの子には何をしても無駄だ」という無視に変わるのではないか。

わたしは、膝の上で震える手をぎゅっと握りしめた。

「……みんな、普通じゃないから。あそこにいたら、わたしも、もっと壊れちゃう気がして……怖いよ」

言葉にすると、涙が溢れて止まらなくなった。

母はそれ以上何も言わず、ただ黙って車を走らせた。その沈黙が、今のわたしには一番の毒だった。母が何を考えているか分からない。怒っていても気づけない。それが怖くてたまらなかった。


その夜、壁越しに父と母が話し合っている声が聞こえてきた。

低い父の声と、母の声。わたしの将来、わたしの「今後」について。


そしてわたしは、五年生になる四月から、別室登校をする事になった。

クラスのみんなとは別の部屋で、先生に見守られながら勉強する。

それは母なりに出した妥協案なのだろう。けれど、わたしにとっては、それもまた「普通の子」という道から、さらに大きく外れていく宣告にしか聞こえなかった。

三月。学校を欠席したまま、カレンダーだけがめくられていった。

季節は、わたしの心なんて置いてきぼりにして、勝手に春を連れてくる。

そして、四月。新しい年度、五年生が始まった。

約束の「別室登校」の初日。

わたしは母と一緒に、久しぶりに小学校の門をくぐった。

校庭には、新入生を歓迎するような満開の桜が咲き誇っていて、そのピンク色が、今のわたしには酷く毒々しく見えた。

母と手を繋いで校舎に入る。母の手は暖かくて、少しだけ安心した。

学校の門をくぐるまでは、「母と一緒なら、安全かもしれない」と、淡い期待を抱いていたのだ。

けれど、一歩校舎に足を踏み入れた瞬間、その理想は音を立てて崩れ去った。

学校は、何一つ変わっていなかった。

そして、隣にいる母も、何も変わっていなかったのだ。

「ほら、亜矢。背筋を伸ばして」

母は前を向いたまま、わたしの顔を見ることなくそう言った。

母は、一緒にいるけれど、わたしの心までは見ていない。

母にとって、わたしを学校という場所に連れてくることが目的であって、そこでわたしが何を思い、どれほど息が詰まりそうになっているかは、相変わらず二の次なのだ。

結局、わたしは隣に誰がいても、一人だ。

案内されたのは、校舎の隅にある、普段は使われていない小さな空き部屋だった。

机と椅子がいくつか置かれただけの、殺風景な空間だ。

ここで、わたしは一人で、配布されたプリントで勉強することになった。

「別室登校なら、教室で透明人間になるよりは、孤立しなくて済むのかな」

そんな考えは、甘すぎた。

誰もいない部屋で、ただ時間が過ぎるのを待つ。時折、廊下をクラスメイトたちが笑いながら通り過ぎてゆく音が聞こえる度に、実感してしまう。壁一枚隔てた向こう側には「普通」の世界があるのに、わたしだけが、この冷たい箱の中に閉じ込められている。

どうしてわたしは、こんな目に合うのだろう。

これは、孤立どころではない。完全な隔離だ。

数日後、新しい担任の先生が部屋にやってきた。

佐藤先生。眼鏡をかけた、一見すると穏やかそうな女性だった。

けれど、彼女が口を開いた瞬間、わたしは本能的に察してしまった。この人も、あちら側の人間だ。

「亜矢さん、体調はどう? ここなら静かに自分のペースで勉強できるからね。先生たちも、最大限の『配慮』をするから。何かあったら、いつでも言ってね」

先生は、何度も「配慮」という言葉を繰り返した。

その言葉の裏側に透けて見えるのは、「あなたは特別だから、普通の対応はできません」という、無言の境界線だった。

特別扱い。

その四文字。言葉にすればたった四文字で決定的な言葉が頭に浮かんだ瞬間、全身の血の気が引くのを感じた。

「配慮」という壁で守られながら、同時に、誰とも関われない場所に押し込められる。

フリースクールという異質な場所。

別室登校という隔離された場所。

どちらを選んでも、待っているのは「あなたは普通じゃない」と突きつけられる絶望だけだった。

窓から差し込む春の光が、埃をキラキラと照らしている。

その光は、眩しくて温かいのに、わたしのところまでは届かない。

わたしは、自分の足元に広がる影をじっと見つめながら、思った。

「普通」という光を、わたしはほとんど永遠に失ってしまったのだ。

多分、もう二度と、あちら側の世界で笑うことはできない。

鉛筆を握る手が、微かに震えていた。

真っ白なプリントの余白に、わたしはただ、意味のない点を一つ打っていた。

それは、広い世界で独りぼっちになった、わたし自身の姿のように見えて、また視界が涙で歪んでいった。

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