プロローグ 第四話

「亜矢、準備はできた? 車、出せるわよ」

母の明るい声が、一階から階段を駆け上がってくる。その声を聞くだけで、胃の奥を絞るようにぎゅっと痛んだ。

あの日、「いく」なんて言わなければよかった。

この一週間、ずっとそのことばかりを考えていた。夜、天井を見つめながら何度もシミュレーションをしては、怖くなって布団を被り、朝が来るのを呪った。

けれどその後も、結局わたしは断れなかった。

母が見せてくる「期待」という名の無言の圧力に屈して、言われるがままに用意された服を着て、重たい体を引きずるようにして玄関へ向かう。

数ヶ月ぶりの本格的な外出。

玄関のドアを開けた瞬間、差し込んできた太陽の光があまりに眩しくて、クラリと眩暈がした。

「……眩しい」

「ずっとお部屋にいたからね。でも、今日はいいお天気でよかったじゃない」

母はわたしの体調なんてお構いなしに、車の助手席のドアを開ける。

車内は、芳香剤のツンとした匂いと、母が好んで流しているラジオの音が充満していた。

窓の外を流れていく景色は、わたしの知らない間にすっかり色を変えていた。街路樹の葉の色も、歩いている人たちの服装も、わたしが置いていかれた時間を残酷なほどはっきりと見せつけてくる。

外に出るのが、怖い。

すれ違う車の運転手も、信号待ちをしている歩行者も、みんなが「あの子、平日のこんな時間に何してるんだろう」と指をさしているような気がして、わたしは深くコートのフードを被り、膝の上で拳を握りしめた。

「ねえ、亜矢、そんなに緊張しなくて大丈夫よ。先生も優しそうな人だったし」

母はハンドルを握りながら、なだめるように言う。

「ママには、分からないよ」

わたしがぽつりと呟いた言葉に、母は気づかなかった。

わたしの喉は、熱い塊が詰まったように塞がっていた。

学校に行けないわたし。

家にも居場所がないわたし。

そんなわたしが、今から「学校に行けない子たちの集まり」に行く。それがどれほど惨めで、どれほど自分を否定することになるか。

後悔の波が、何度も何度も押し寄せては、わたしの心を削ってゆく。

車が停まったのは、住宅街の片隅にある、少し古びた二階建ての建物だった。

「フリースクール・ひだまり」

控えめに掲げられたその看板を見た瞬間、逃げ出したくなったが、母はもう車を降りて、わたしのドアを開けて待っている。

「……いくよ」

自分に言い聞かせるように呟いて、わたしは地面に足をつける。

コンクリートの感触が、ひどく頼りなく感じられた。

建物の中に入ると、独特の、古い紙の匂いと、誰かが淹れたお茶の匂いが混ざって、そして、どこか……「淀んだ」空気が漂っている気がする。

「こんにちは。今日から見学の篠崎さんね?」

出迎えてくれた職員の女性は、不自然なほどにこやかな笑顔を浮かべていた。その笑顔が、わたしには仮面のように見えて、かえって怖くなった。

「さあ、中へどうぞ。みんな、思い思いに過ごしているから」

促されるまま、奥にある広いプレイルームのような場所へ足を踏み入れる。

そこには、十人くらいの子たちがいた。

一歩入った瞬間、わたしの全身に鳥肌が立った。

直感的に、分かってしまった。

──みんな、普通じゃない。

そこには、わたしの知っている「教室」の風景なんて、ひとかけらもなかった。

中学生くらいに見えるのに、部屋の隅でボロボロのぬいぐるみを抱いて、ずっと床を見つめている女の子。

誰に話しかけるでもなく、壁に向かってぶつぶつと何かを呟きながら、狂ったようにノートを黒く塗りつぶしている子。

派手すぎる金髪に、目の周りを真っ黒に塗ったメイクをして、イヤホンから漏れる爆音の中で虚空を見つめている人。

みんな、バラバラだった。

視線が合わない。

会話が成立していない。

それぞれが、自分の周囲に目に見えない高い壁を築いて、その中に引きこもっている。

「普通」の学校に馴染めなかったわたし。

「普通」の生活を送れなくなったわたし。


だが、ここにいる人たちは……わたしの想像を絶するほどに、世界から逸脱してしまっていた。

その光景を見た瞬間、わたしは猛烈な辛さと、それ以上に、底知れない恐怖に襲われた。

ここに来れば、少しは救われるのかもしれないと、心のどこかで期待していた自分を殴りたかった。

嫌だ。わたしは、ここに混ざりたくない。

ここにいたら、わたしもあの子たちのように、さらに壊れてしまうのではないか。

それとも、もうすでに、わたしもあの子たちと同じ「向こう側」の人間だと思われているから、ここに連れてこられたのだろうか。

チラリと母の方を見ると、彼女は戸惑いを含んだ笑顔で、「賑やかで楽しそうね」なんて、嘘のような言葉を口にしていた。

母は、見ていない。

ここに漂う、切実なまでの「異質さ」も、叫びたくなるような孤独の匂いも。

ただ、わたしをどこか「預けられる場所」に押し込めたことに、安心しようとしているだけだ。

足元が崩れてゆくような感覚がした。

どこにも、救いなんてなかった。

一人は嫌だと泣いたけれど、ここにいるのは、もっと恐ろしい「孤独の集団」だった。

わたしは、引きつった顔で立ち尽くすことしかできなかった。

自分の居場所だなんて、思えないのに、ここを拒絶したら、わたしにはもう、帰る場所さえなくなってしまう。

視界が歪んでゆく。

プレイルームの真ん中で、わたしは一人、冷たい汗を流しながら、自分が「普通」という名の岸辺から、いよいよ遠く、暗い海へ流されてゆくのを嫌という程実感していた。

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