第2話 覚めていく。私の“普通”。
朝の光は、宿の薄いカーテンを通してやわらかく差し込んでいた。
アナベルは、いつも通りの時間に目を覚ます。
町が完全に起ききる前の、短い静寂の中。
意識がはっきりと覚醒してくると同時に、とあることに気づく。
――何かが、いる。
だが、アナベルは慌てて跳ね起きることはしなかった。
ゆっくりと瞼を開き、天井を見つめる。深く息を吸い、吐く。
身体の状態を確認する、疲労はない。
そこでようやく、上体を起こす。
視線を巡らせると、部屋の隅で椅子に腰掛けた男が目に入る。
人間の姿をしているが、どこか影が濃い。
そしてアナベルを観察する視線に、迷いがない。
「……」
普通の人間ならば、悲鳴をあげていた。
あるいは、咄嗟に距離を取っていただろう。もしくは物を投げつけたり。
だがアナベルは、静かに口を開いた。
「おはよう」
柔らかく、穏やかな声音。
まるで、宿の従業員に声をかけるように。
「随分と早いお客様ね。ご用件を伺っても?」
男は一瞬、言葉を失ったようだった。
「……警戒しないのか」
低く、探るような声。
アナベルは小さく首を傾げる。
「警戒?勿論してるわ。ただ……」
そこで、少しだけ困ったように微笑む。
「話すのは構わないのだけれど。一度、寝癖を直してもいいかしら」
男は、明らかに戸惑った。
「……は?」
「今日は午後から仕事があってね。今のうちに整えておきたいの」
そう言って、彼女は櫛を手に取る。
男の返事を待つこともなく、鏡の前に立った。櫛を使って髪を整え、毛先の流れを揃える。
口角を上げ、目元を柔らかくする。
人に見せる顔を、丁寧に作る。
背後からの視線を気にする様子はない。
「……許可を取る意味はあったのか」
「一応ね。勝手に入ってきた不審者とはいえ、お客様はお客様だから」
男は短く息を吐いた。
異様に落ち着き払った姿、見知らぬ存在に対して全く動じることなく淡々と応じ、お客様などと呼んでくるその思考。
出てくる言葉は一つ。
「普通じゃないな」
それを聞いた瞬間、アナベルはぴたりと動きを止める。そして、一言だけ。
「……何が?」
微笑みこそ崩さないが、その目の奥に全く感情が感じられない。
怒りや困惑ではない、純然たる問いかけだ。
沈黙が落ちる。
やがて、話を逸らすかのように男は名乗った。
「魔族のザイオンだ。初代魔王の最側近として仕えていた」
その瞬間、空気が僅かに張り詰める。
だが、アナベルは声色を変えない。
「それはまた、立派な肩書きね」
櫛を置く手が、ほんの一瞬だけ止まったことに、彼女自身は気づいていなかった。
ザイオンと名乗る男は、こうして目の前に姿を表す少し前から、アナベルを観察していた。
人と関わる彼女の姿勢。声の抑揚。柔らかな微笑。
少し見ていれば、ただ人当たりがいいだけの平凡な町娘のそれだった。
だが、不自然なところもある。
先ほど、彼女が自分を認識した瞬間もそうだ。
普通の人間なら感情に動きを見せるところを、彼女は一切見せなかった。
──何が?
そう彼女は問いかけた。
その問いの意図を、ザイオンは理解したのだ。
彼女は、まだ普通の人間を理解しきれていない。
普通の人間ならどう反応したのか。
それを聞き出すための問いかけ。
「……その話し方」
不意に、ザイオンが口を開く。
「いつから演じている?」
空気が、一瞬だけ止まった。
そして、ザイオンは確かに見た。鏡に映る彼女の表情。その瞳の光がなくなった瞬間を。
「演技?」
アナベルは、首を傾げる。
その仕草すら、ザイオンにはどこか計算されたように見えた。
「何のことかしら。私は、ただ――」
「違う」
ザイオンは、はっきり遮った。
「それはお前の話し方じゃない。誰の真似だ?誰を、見本にしている?」
その問いを聞いた瞬間に、アナベルの表情から、ふっと力が抜ける。
柔らかな笑みが消え、声の温度が、一気に下がった。
「気づかれるとは思いませんでした」
口調が変わる。
目の前の存在を敬っているわけでも、見下しているわけでもない。
どこまでも平坦な声。
「ええ。これまでの姿は演技です。人間に受け入れられやすい姿を演じているだけですよ」
アナベルは、机の上に視線を向ける。
これまで自分が書いてきた、自身の演技の改善点をまとめた冊子。
それは、最後に見た昨日の夜から、微妙に位置が違っていた。
「読みました?」
「ああ、一通り目は通した」
「そうですか。酷いことをしますね」
これが、彼女の本来の人格か。
ザイオンは息を呑んだ。
彼は、アナベルが目覚める前にその冊子を読んでいた。
日記のように見えたが、ページをめくってもめくっても、書かれているのはその日の感想ではなかった。
「酷いだなんて、理解できているのか?」
「他人の日記を勝手に見るな。昔、そう言われたことがあります」
「……ああ、そうか。悪かったな」
ザイオンは確信した。
彼女は、自分の意思で話していない。
過去の経験から学んだ、その時々で抱く一般的な感情。
それを引き出して演じているだけ。
だから、想定外の事態には人間として不自然な対応を取る。
先ほど自分に、おはよう、と言ったように。
決して高圧的ではないが、かといって友好的でもない。
自分も自分以外も、全てをただの“個”としてしか認識していない。
だが、それがいい。そこで、ザイオンは本題を告げた。
「……確認しよう。お前は、自分が何者かを知りたいか?」
その視線は、アナベルの表情ではなく彼女の目の奥を見ているようだった。
アナベルは、少し考えてから答えた。その視線は町の方へ向いている。
徐々に動き出す人々、町を照らす太陽の日差し。全てがいつも通りで、彼女の望む日常そのものだ。
「どうでもいいですね」
その答えに、ザイオンは目を細める。
彼女は現状に満足している。
自分の正体を知ったところで、今の生活を変えるつもりなどないのだ。
「だが――」
ザイオンは、一歩踏み出す。
「知らずに済む段階は、もう終わっている」
彼は、はっきりと言った。
「お前は魔族だ。しかも、ただの魔族じゃない」
アナベルは、瞬き一つしなかった。
「初代魔王――その力を継承して生まれた存在。お前は、魔王の娘だ」
一瞬の沈黙が落ちる。
アナベルは、口元に手を当てて思考していた。
重たい言葉のはずだった。
自分にとって、世界を揺るがす真実のはずだった。
だが。
「成る程。納得しました」
アナベルの反応は、それだけだった。
かつての魔王の娘は、今日も人間を演じている。 のけ物怪 @nokemononoke
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