第1章 最低限で生きられる世界
第1話 “上手く”生きる
朝の市場は、いつも通り騒がしかった。
焼きたてのパンの匂いと、香草を刻む音。値段を巡る軽口混じりのやり取りが、通りを満たしている。
とある少女──アナベルは、その中心を自然に歩いていた。
「おはよう、おじさま! 今日は随分と賑わってるみたいね?」
声は柔らかく、表情は穏やかな笑み。
挨拶を向けられた商人は、にこやかに笑い返した。
「おう、ベルじゃねえか! ああ、今日は王国から仕入れた雑貨が目玉でな。この調子だと、他の商品も昼前には売り切れちまいそうだ」
「あら、それは大変。だったら、早めに買っておいた方がよさそうね?」
そう言って、彼女は軽く首を傾げる。
この町で、アナベルは評判のいい娘だった。
身寄りがない、そうしてある日突然現れた娘。
もちろん最初は警戒されていたが、礼儀正しく、仕事もそつがなく、誰に対しても感じがいい。
活発と言うほど明るくもないが、とても穏やかな人間。いつの間にか町に馴染み、それを疑問に思う人もいなかった。
特別に目立つことはないが、いないと少し困る。そんな位置に、彼女はきちんと収まっている。
パン屋で二つ、野菜を少し。必要なものを過不足なく選び、余計な会話はしない。
だが、無愛想でもない。
アナベルの住居である町の外れに近い簡素な宿へ戻る途中、小さな子供たちが走り回っていた。
そのうちの一人が転び、えぐえぐと泣き始めてしまう。どうやら、膝を擦りむいてしまったようだった。
「だいじょうぶ?」
アナベルは迷いなく歩み寄り、ハンカチを取り出す。傷口の付近についている土を払い、バスケットから水筒を取り出して軽く傷口を洗う。
そのまますぐに止血も行い、子供を安心させようと微笑みかけた。
「ちょっと痛むだろうけど、すぐ良くなるわ」
「うん! ありがとう!」
先程まで泣きじゃくっていた子供はあっという間に泣き止み、またすぐに走っていってしまった。
──なんてことのない日常。
時に人を助け、時に人に助けられ、そんな関係性。この町で自分と関わる人々は皆、自分を信頼している。
上手くやっている。
アナベルは、自らの生活をそう評価しながら、再び宿へと歩き出した。
*
古い木造の宿屋に帰ってきたアナベルが、自身に与えられた二階の隅にある一室の扉を閉め、鍵をかけた瞬間。
彼女の表情から、すべてが消えた。口角は落ち、虚空を見つめたままで動かない。
「……」
迷いなく机に向かい、薄い冊子を開く。日付けごとに細かにページが分けられていたが、それは日記というより、記録帳に近いものだった。
・朝の挨拶時、声がやや硬い。
・子供への返答はもっと優しい言葉遣いにする。
・笑顔の維持時間が短い。もっと自然に笑う練習が必要。
淡々と書き連ねる、改善点、修正箇所。
アナベル。彼女は、とある人間を模倣して生きていた。
自分が出会った人間の中で、最も“他者に受け入れられる”と感じた存在。その人物を模倣すること。
彼女は生まれつき、感情が皆無と言えるほどに希薄だった。しかし、暫く生きていくうちに気づいたのだ。
──私本来の姿は、人間社会で生きるには非効率的だ。
人間の社会で生きていくのであれば、多少の演技に労力を割いたほうが快適な生活を送ることができる。
最も大切なことは、最低限のエネルギーだけ使って生きていける日々。それが彼女の考え方だった。
*
町に警鐘が鳴ったのは、深夜に近い時間だった。重く、低い音が遠くから響き、外がざわめき始める。
異変は、町の外れからだった。
家畜小屋の方角で、獣の雄叫びが上がった。
それは狼の遠吠えに似ていたが、途中から音が歪み、喉を裂くような異音へと変わった。
「魔獣だ! 魔獣が出たぞ!」
見張りの声が上がり、人々が一斉に動く。いくら深夜に近い時間とは言え、酒場などはまだまだ賑わっていた。
しかし、警鐘と見張りの声を聞くや否や、または一気に静まり返る。
そうして暗闇から通りへ姿を現したのは、一匹の狼だった。ただし、普通の狼ではない。
体毛はまばらに抜け落ち、そうして露出した皮膚の下で青白い光が脈打っている。肉体そのものが歪められ、筋肉が膨張し、皮膚を破って露出している。
魔獣。この地では、珍しくもないが、歓迎される存在でもない。突然現れ、他のを襲う凶暴な生物
警備兵は槍を突き出すが、刃は毛皮の奥まで届かない。なかなか距離を詰めることができず、互いに睨み合っている。
魔獣は低く唸り、石畳を削るように爪を立てており、今にも飛びかかってきそうだった。
その時、彼らの後ろから突然、フードを深く被った人物が前に出た。灰色のローブで、顔は宵闇の影に隠れて見えない。
それは、アナベルだった。
「おい、何してる! 早く離れろ!」
警備兵にかけられた声を無視し、その人物は淡々と魔獣の方へ距離を詰めていく。
誰にも声をかけず、誰の許可も取らない。ただ、魔獣と向き合う。彼女が一歩踏み出した瞬間、空気がわずかに重くなった。
本能で脅威を感じ取ったのか、魔獣がアナベルに向かって跳ぶ。
魔獣の鋭い爪がアナベルの体を引き裂くかと思われた次の瞬間、見えない力が狼の胴を正面から叩き潰した。
鈍い音。肉が潰れ、骨が砕ける。
魔獣は悲鳴すら上げられず、地面に叩き伏せられた。
青白い光が、霧のように散って消える。その場に残ったのは、無惨に潰れた狼の死骸と、周りに飛び立った血飛沫のみ。
それで、終わりだった。
倒れた狼を一瞥すると、そのまま踵を返した。血の匂いが漂う中、何事もなかったかのように歩き始める。
「……あんた、何者なんだ?」
警備兵の誰かがそう話しかけようとしたが、答えは返ってこない。
彼女は既に、暗闇の奥へと姿を消していたから。
誰もが、安堵と同時に、言葉にできない違和感を覚えていた。
この町に魔法を使える人間などいない。
なら、あのローブを着た人物は一体何者なのだろうか、と。
*
宿の裏手。
二階にある部屋に向かって跳び、予め開けっ放しにしておいた窓枠に手をかけ、音も立てずに滑り込む。
部屋に入ってすぐ、ローブを外して椅子にかける。
部屋は静かで、外からは酒場の笑い声が微かに聞こえた。
これがこの町の日常だ。偶に魔獣が出没したりすることはあるが、討伐されたと知れば、すぐに自由な生活へ戻る。
別に警備兵に任せてもいい。今まではそうしていたから。
ただ、それで被害が出るようなことがあったら、自分にも影響が及ぶかも知れない。
なら、自分が魔獣を処理したほうが効率的。
それがアナベルの考えだった。
誰に向けるでもなく、息を吐く。
そしてふと、思い出す。
――昔、こう聞いた。
『何で貴女を拾ったのかって?』
穏やかで、よく通る声。
『……放っておけなかったのよ。困っている人がいたら、助けたくなっちゃうの』
記憶の中のその人は、少し困ったように笑っていた。
やはり、理解できない。
助けた相手が自分に恩を返してくれるのであればともかく、その労力に対価が見合っていない場合もあるだろう。
そう考えながらランプを消し、ベッドに横になる。
──眠りに落ちる直前。
宿の裏手で、ほんの一瞬だけ気配が揺れた。
獣でも、人間でもない。
だが、確かに“見られている”感覚。
アナベルは目を閉じたまま、何も確認しようとはしなかった。
その気配はすぐに消えてしまったし、仮に攻撃されるようなことがあっても自分は簡単には死なない。
そんな確信があったからだ。
町での静かな生活に終わりが近づいていることを、彼女はまだ知らない。
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