第8話 痛みの泉
遥の記憶は、いつも少し遅れて痛みを連れてくる。
出来事そのものではなく、その余韻が、時間差で胸に沈殿する。まるで、澄んだ水面の底に、後から濁りが広がっていくように。
父が倒れた日のことも、そうだった。
その知らせを受けたのは、職場の休憩室だった。電子レンジの低い唸り声と、コーヒーの匂い。その中に、携帯電話の震えが割り込んできた。
「お父さんが、入院したって」
母の声は、必要以上に落ち着いていた。
その落ち着きが、かえって現実感を奪った。
「……そう」
遥は、そう答えた。
それ以上の言葉が、見つからなかった。
◇
病室の空気は、独特だった。
消毒液の匂いと、静かな機械音。時間が、薄く引き延ばされている。
正博は、ベッドに横たわっていた。
いつもより、小さく見えた。
——こんな顔、初めて見る。
遥は、足を止めた。
父と向き合う準備が、できていなかった。
「来たか」
正博は、そう言った。
声は、かすれている。
遥は、頷いた。
言葉は、喉の奥で固まったままだった。
◇
正博は、娘の表情を見て、胸の奥がわずかに痛んだ。
怒っているわけでも、泣いているわけでもない。
ただ、距離がある。
——この距離を、俺が作った。
そう思うと、息が詰まった。
病は、身体を弱らせる。
だが、同時に、言い訳も削ぎ落とす。
「無理しなくていい」
正博は、そう言った。
それが、父親らしい言葉だと思った。
だが、遥は首を振った。
「……仕事、抜けてきただけ」
その声は、淡々としていた。
感情を乗せないことで、均衡を保っている。
◇
遥は、父の腕に伸びる点滴の管を見つめていた。
透明な液体が、規則正しく流れている。
——これが、生きるってこと?
そう思った瞬間、自分の考えに驚いた。
生きることは、もっと別のものだと思っていた。
父は、仕事の話しかしなかった。
家では、疲れた顔で新聞を読み、時々、ため息をつく。
——私のこと、見てたのかな。
問いは、ずっと胸にあった。
だが、今さら、口にする勇気はない。
◆
小鬼は、泉の縁に腰を下ろしていた。
そこは、病室でも、現世でもない。
記憶と感覚が、溶け合う場所。
「第八だ」
小鬼は言う。
「痛みの泉。避けてきた身体の記憶だ」
正博は、泉を見下ろした。
水面は静かだが、底が見えない。
「これは……」
「お前が、見ないふりをしてきたもの」
小鬼の声には、皮肉が滲んでいた。
◇
遥の脳裏に、別の光景が浮かぶ。
幼い頃、熱を出した夜。
額に置かれた冷たいタオル。
母の手。
そして、遠くで聞こえる、父の電話の声。
「すまない、今日は帰れない」
その声は、優しかった。
だが、遠かった。
——いつも、そうだった。
遥は、ベッド脇の椅子に座り、手を組んだ。
父の顔を、見ないように。
◇
正博は、泉に足を踏み入れた。
冷たい。
だが、次の瞬間、鋭い痛みが走る。
胸。
腹。
頭。
かつて、無視してきた不調が、一斉に蘇る。
——忙しいから。
——歳のせいだ。
そう言って、放置してきた違和感。
それが、形を持って迫ってくる。
正博は、歯を食いしばった。
逃げ場はない。
◇
遥は、父の寝息を聞きながら、思い出す。
大学受験の結果を報告した日。
「そうか」
それだけだった。
——もっと、何か言ってほしかった。
その痛みは、小さく、しかし確実に残っている。
今も、胸の奥で疼く。
遥は、自分が父を責めきれない理由を考える。
憎むには、優しすぎた。
愛するには、遠すぎた。
その中間に、長く留まってきた。
◇
正博は、泉の底で、膝をついていた。
痛みは、波のように押し寄せる。
小鬼が、見下ろす。
「感じろ」
「それが、生きていた証だ」
正博は、息を整えながら、思う。
——俺は、身体を使い潰した。
——誰かのためと言いながら。
本当は、自分の不安を埋めるためだった。
◇
遥は、気づかないうちに、涙を流していた。
音もなく、頬を伝う。
「……ばか」
小さく、呟く。
父に向けた言葉か。
自分に向けた言葉か。
わからないまま、手を伸ばす。
躊躇いながら、父の手に触れる。
温かい。
——生きてる。
その事実が、胸に広がる。
◇
正博は、泉の中で、ようやく理解する。
痛みは、罰ではない。
警告であり、呼び声だった。
——助けてくれ。
——立ち止まれ。
身体は、ずっと語りかけていた。
だが、聞く余裕がなかった。
正博は、泉から這い上がった。
身体は、重い。
だが、意識は、澄んでいる。
◆
小鬼は、静かに頷いた。
「八つ目、終わりだ」
「痛みを知る者だけが、他人の痛みに触れられる」
正博は、遥の姿を思い浮かべた。
病室で、涙をこらえる娘。
——あの涙を、俺は見なかった。
それが、胸に刺さる。
◇
遥は、病室を出る前、振り返った。
父は、眠っている。
——もし、戻ってきたら。
そんな考えが、浮かんでは消える。
期待するのが、怖い。
廊下を歩きながら、遥は思う。
——私も、痛みを避けてきた。
父を理解しようとする痛み。
許すかもしれないという痛み。
泉は、誰の中にもある。
◇
時間は、再び折り重なる。
泉の水面は、静まり返る。
正博は、次の試練へと進む。
身体の記憶を背負いながら。
第八の試練は、声高な結論を与えない。
ただ、痛みを、痛みとして受け取る力を残す。
それが、再生への一歩なのかどうか。
まだ、答えは、泉の底に沈んだままだった。
蘇るための十二の試練 小林一咲 @kobayashiisak1
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