第7話 虚栄の塔

 塔を見上げる視線は、いつも少しだけ上向きだった。

 真正面からではなく、斜めに。全体を把握するためではなく、どこまで高く積み上がっているかを測るために。


 その視線の主は、河合 恒一。

 正博と同じ業界で長く働いてきた男であり、かつては競争相手であり、ある時期からは「知人」と呼ぶのがふさわしい距離に落ち着いた人物だった。


 河合は、ホテルの宴会場に足を踏み入れ、周囲を一瞥した。

 名刺交換の輪。笑顔の連鎖。肩書きが先に歩き、本人は少し遅れてついてくるような光景。


 ——まだ、こういう場所に集まるのか。


 そう思いながらも、河合自身もまた、スーツの襟を正し、背筋を伸ばしている。

 塔は、誰かが建てたものではない。皆が少しずつ、無意識に積み上げてきたものだ。


 ◇


 正博は、その塔の中腹に立っていた。


 いや、立っているというより、埋め込まれている。

 名刺、表彰状、肩書き、実績。無数の札が、石のように組み合わさり、塔を形成している。その一つ一つに、正博の名前が刻まれていた。


「第七だ」


 小鬼の声が、反響する。


「虚栄の塔。お前が登り、同時に閉じ込められた場所だ」


 正博は、足元を見た。

 どこまで下りても、同じ札が続いている。上を見れば、まだ先がある。


 ——終わりがない。


 その事実が、今になって、奇妙な恐怖を伴って迫ってきた。


 ◇


 河合は、グラスを手に取り、会場の一角で立ち止まった。

 正博の名前が、頭をよぎる。


 訃報を聞いたとき、河合は複雑な感情を抱いた。

 驚きはなかった。だが、安堵とも違う。むしろ、塔の一角が崩れたような、頼りない感覚。


 ——あいつがいなくなったか。


 正博は、目立つ存在ではなかった。

 だが、確実にそこにいた。会議の席で、業界紙の片隅で、名前を見かける存在。


 河合にとって、正博は比較の対象だった。

 自分より上か、下か。追い抜いたか、追い抜かれたか。


 ——いつからだろう。

 ——人を、人として見なくなったのは。


 ◇


 正博は、河合の記憶に触れ、苦く笑った。


 ——俺も、同じだった。


 人を見るとき、肩書きが先に目に入る。

 自分より上か、下か。それで距離を測る。


 それが、業界の空気だと思っていた。

 だが、本当は、自分自身の不安を誤魔化すためだったのかもしれない。


「塔は、安全だ」


 小鬼が言う。


「高い場所からは、全体が見える気がする」


 正博は、頷きかけて、止まる。


 ——見えていたのは、数字だけだ。


 ◇


 河合は、ふと、壇上に目を向けた。

 表彰が始まるらしい。若い経営者が名前を呼ばれ、拍手が起こる。


 拍手の音は、乾いている。

 誰もが、祝福と同時に、計算をしている。次は自分か。いつか自分か。


 河合は、正博と最後に言葉を交わした日のことを思い出す。

 業界の集まりの帰り、駅まで一緒に歩いた。


「まだ、やるのか」


 河合が、冗談めかして言った。


 正博は、少し笑って答えた。


「やめ時が、わからなくてな」


 その言葉を、河合は軽く受け取った。

 だが今、別の重みを持って蘇る。


 ——降り方を、知らなかったんだ。


 ◇


 正博は、塔の壁に手を触れた。

 冷たい。無機質だ。感情を吸い取る表面。


 塔の中では、自分が大きく見えた。

 評価され、必要とされているという錯覚。


 だが、塔の外に出た瞬間、その価値は消える。

 残るのは、何だ。


「切り離せ」


 小鬼が言う。


「名前を、肩書きから」


 正博は、躊躇した。

 それは、自分の存在証明を剥がすことに等しい。


 ——名がなければ、俺は何者だ。


 その問いが、初めて、切実に胸を打つ。


 ◇


 河合は、拍手をしながら、ふと、自分の手を見た。

 年齢を感じさせる皺。かつての勢いはない。


 ——この先、何を積み上げる。


 塔の上に、さらに石を置くのか。

 それとも、どこかで降りるのか。


 正博の死は、他人事ではなかった。

 塔の中で立ち止まることの危うさを、静かに示している。


 ◇


 正博は、深く息を吸った。

 空気は薄い。だが、今なら耐えられる。


 彼は、自分の名が刻まれた札を、一枚、外した。

 それは、最初の昇進の証だった。


 札が外れると、塔がわずかに揺れた。

 だが、崩れない。


 ——もっとだ。


 次に、表彰状。

 業界誌の掲載記事。

 部下たちの評価。


 札を外すたび、塔は低くなる。

 同時に、正博自身も、小さくなっていく。


 恐怖は、意外にも薄かった。

 代わりに、奇妙な解放感が広がる。


 ◆


 小鬼は、淡々と数を数えていた。


「それでいい」


 虚栄は、一気に壊れない。

 少しずつ、手放すしかない。


 正博が、最後に残した札は、名前そのものだった。

 肩書きのない、ただの名。


 ——これを外したら、何も残らない。


 正博は、しばらく考えた。

 そして、静かに、それを外した。


 ◇


 塔は、音もなく消えた。

 瓦礫すら残らない。ただ、広い空間がある。


 正博は、そこに立っていた。

 裸ではない。だが、飾りもない。


 ——軽い。


 その感覚が、胸に満ちる。


 ◇


 河合は、宴会場を後にし、夜風に当たった。

 スマートフォンを取り出し、予定表を見る。


 空白が、目立つ。


 ——埋めなくてもいいか。


 そう思った瞬間、少し笑ってしまった。

 正博なら、どう言っただろう。


「たまには、いいんじゃないか」


 そんな声が、聞こえた気がした。


 ◆


「七つ目、終わりだ」


 小鬼の声は、どこか遠くで響いた。


「虚栄は、人を高くする。だが、同時に、視野を狭める」


 正博は、振り返らなかった。

 もう、見上げる塔はない。


 時間は、再び折り畳まれる。

 次に待つのは、痛みだ。


 ——第七の試練は、静かに、しかし決定的に終わった。


 正博は、名を失い、少しだけ自由になった。

 それが、蘇りに近づいているのか、遠ざかっているのか。

 まだ、誰にもわからない。

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