第6話 家族の糸

 恵子の指先は、糸くずを探すように、無意識に膝の上をなぞっていた。

 テレビはつけたままだが、内容は頭に入ってこない。音だけが、部屋の隅々に行き渡り、沈黙の輪郭をぼかしている。


 正博がいなくなってから、家は広くなった。

 物理的には何も変わっていないはずなのに、空気の余白が増えたように感じる。ダイニングテーブルの向かい側。靴箱の一段。浴室の脱衣かご。

 使われなくなった場所が、静かに主張してくる。


「……洗濯、しなきゃ」


 誰に聞かせるでもなく呟き、恵子は立ち上がった。

 生活は続く。続けなければならない。その当たり前が、今は重い。


 洗濯物を畳みながら、恵子は一枚のシャツに手を止めた。

 正博のものだ。襟の内側が、少し擦り切れている。


 ——この人は、いつから疲れていたのだろう。


 そう考えた瞬間、胸の奥に細い糸で縛り付けられたような痛みが走った。


 ◇


 正博は、居間の隅に立っていた。


 家。

 かつて、帰る場所だと信じていた場所。

 だが、その信念が、どれほど曖昧なものだったかを、今になって思い知る。


 恵子の背中は、以前よりも小さく見える。

 いや、違う。自分が、どれほど彼女の輪郭を見てこなかったか、その事実が、視界を歪めているのだ。


「第六だ」


 小鬼の声が、いつもより近くで響いた。


「家族の糸。結び直すことも、切ることもできないものだ」


 正博は、反射的に言葉を探した。

 だが、言葉はもう、役に立たない。


 ◇


 玄関の鍵が回る音がして、遥が帰ってきた。

 仕事帰りの疲れが、肩のラインに現れている。


「ただいま」


 恵子は、少し遅れて返事をした。


「……おかえり」


 二人の間に、短い沈黙が落ちる。

 それは気まずさではない。どう触れていいかわからない距離だ。


 遥は靴を脱ぎ、居間に顔を出す。

 そこに父がいないことを、改めて確認するように、一瞬、視線が彷徨う。


「何か、手伝う?」


「いいの。もうすぐ終わるから」


 恵子の声は、柔らかかったが、どこか遠い。


 ◇


 正博は、そのやり取りを見て、胸を締めつけられた。


 ——俺がいた頃も、こうだった。


 言葉は交わされる。生活は回る。

 だが、その間を繋ぐ糸は、いつも張り詰めたままだった。


 正博は思い出す。

 家族旅行の計画を、仕事を理由に延期したこと。

 遥の進学相談を、疲れているからと後回しにしたこと。

 恵子の体調の変化に、気づいていながら、見ないふりをしたこと。


 ——糸は、切れたわけじゃない。

 ——ただ、ほつれていた。


「修復はできない」


 小鬼が、静かに言う。


「できるのは、認めることだけだ」


 ◇


 恵子は、洗濯物を畳み終え、ソファに腰を下ろした。

 視線が、自然と、正博がいつも座っていた場所に向かう。


 彼は、家にいなかったわけではない。

 毎晩、同じ時間に帰り、同じ場所に座り、同じように疲れた顔をしていた。


 ——でも、ここにいなかった。


 恵子は、初めてその言葉を、はっきりと自分の中で形にした。


 一緒に暮らしていた。

 だが、共有していたのは、空間だけだったのかもしれない。


 ◇


 遥は、自分の部屋に入り、鞄を置いた。

 ベッドに腰を下ろすと、急に力が抜ける。


 父の声を聞いたあの日から、心の奥で、何かが動き続けている。

 怒りでも、悲しみでもない。名前のつかない揺れ。


 ——私は、何を期待していたんだろう。


 父が変わることか。

 自分を理解してくれることか。


 あるいは、ただ、向き合ってほしかっただけなのか。


 遥は、目を閉じた。


 ◇


 正博は二人の間に張られた、見えない糸を見た。

 絡まり、緩み、ところどころで擦り切れている。


 ——この糸を、どうすればいい。


「手放せ」


 小鬼が言う。


「お前が掴み続ける限り、糸は重くなる」


 正博は、理解した。

 家族を守るという名目で、自分は糸を握り締めていた。

 コントロールし、把握し、責任を果たしているつもりで。


 だが、それは、相手の自由を縛ることでもあった。


 正博は、ゆっくりと、手を開いた。


 ◇


 その瞬間、何かが劇的に変わるわけではない。

 家の中の空気も、二人の表情も、目に見えては変わらない。


 だが、恵子は、ふと、胸の奥が軽くなるのを感じた。

 理由はわからない。ただ、呼吸がしやすくなった。


 遥もまた、部屋の中で、無意識に肩の力を抜いていた。


 ——許す、という言葉ではない。

 ——忘れる、でもない。


 ただ、糸が、少し緩んだ。


 ◇


 正博の輪郭は、これまで以上に薄くなった。

 夫であるという役割。父であるという自負。


 だが、その代わりに、奇妙な静けさが広がる。

 家族を「背負う」存在から、ただの一人の人間へ。


「六つ目、終わりだ」


 小鬼が告げる。


「家族は、完成しない。だからこそ、続く」


 正博は、最後に一度だけ、恵子と遥を見た。

 二人は、同じ部屋にいながら、それぞれの時間を生きている。


 それでいい。

 そう思えることが、試練だった。


 ◆


 小鬼は、糸の残像が消えていくのを見届けた。


「次は、塔だ」


 虚栄という名の、高く、脆い構造物。

 そこでは、正博が最も誇りにしてきたものが、試される。


 時間は、再び折り畳まれる。


 ——第六の試練は、静かに、しかし決定的に終わった。


 正博は、もう、戻れない地点を越えている。

 それでも、進むしかない。

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