第5話 恋の残滓

 彼女の午後は、いつも少し遅れて始まる。

 カーテン越しの光が、部屋の床に柔らかな四角形を描き、それがゆっくりと傾き始める頃、彼女はようやく立ち上がる。時計を見る習慣は、ずいぶん前に失われた。時間を測る必要がなくなったのだ。


 彼女の名は、佐倉 春——ではない。

 その名は、正博の記憶の中にだけ、確かな輪郭を持って残っている。ここでは、彼女はただ「彼女」でしかない。結婚し、離婚し、また別の人生を生きてきた女だ。


 台所で湯を沸かし、紅茶のティーバッグを落とす。

 湯気が立ち上り、かすかな香りが広がる。その匂いが、突然、過去への扉を開くことがある。


 ——あの人も、紅茶を飲んでいた。


 正博と過ごした時間は、彼女の人生の中では短かった。

 それでも、消えない。消そうとしなかったわけではない。ただ、消えるという選択肢が、いつの間にか失われていた。


 ◇


 正博は、彼女の部屋に立っていた。


 懐かしさは、思っていたほど強くない。

 家具も、色合いも、かつて知っていたものとは違う。それでも、空気の中に、微かな名残がある。二人で交わした言葉の残滓。触れなかった未来の重さ。


「第五だ」


 小鬼の声が、低く、しかしどこか柔らかく響く。


「恋の残滓。お前が残していったものを、拾い集める」


 正博は、彼女の後ろ姿を見つめた。

 年齢を重ねた背中だ。だが、その線は、記憶の中の彼女と、どこかで繋がっている。


 ——俺は、何を与えただろう。


 ◇


 彼女は、カップを両手で包み込みながら、窓の外を見た。

 空は曇っている。雨の予感はあるが、まだ降ってはいない。


 正博と出会ったのは、彼女がまだ若く、未来を信じることに疲れていなかった頃だ。

 彼は既婚者だった。その事実は、最初からわかっていた。


 ——それでも。


 正博は、優しかった。

 少なくとも、彼女の前では、仕事の顔を脱ぎ捨てていた。愚痴を言い、弱音を吐き、自分が何者かわからなくなると打ち明けた。


 彼女は、その時間を「特別」だと思っていた。

 だが同時に、どこかで理解していた。自分は、彼の人生の本流には入らない。


「……馬鹿ね」


 彼女は、誰に向けるでもなく呟く。

 それでも、当時の自分を責める気にはなれなかった。


 ◇


 正博は、当時の自分を思い出す。


 仕事に疲れ、家庭からも距離を感じていた頃。

 彼女と会う時間は、呼吸のようなものだった。生き延びるための、わずかな隙間。


 ——愛していたのか。


 その問いに、即答はできない。

 彼女を必要としていた。それは確かだ。だが、それが愛だったのかどうか。


「曖昧なままにしたな」


 小鬼が言う。


「曖昧さは、優しさにも、残酷さにもなる」


 正博は、反論できなかった。

 彼は、決断を先送りにした。家庭を壊す覚悟も、彼女を手放す誠実さも、持たなかった。


 ◇


 彼女は、引き出しの奥から、一通の手紙を取り出した。

 封は切られていない。紙は、少し黄ばんでいる。


 正博が、最後に送った手紙だ。

 言葉は、丁寧で、慎重で、結論を避けている。別れを告げているようで、未来を残している。


 ——逃げたのね。


 当時の彼女は、そう思った。

 だが、今は違う解釈もできる。


 ——決められなかっただけ。


 手紙を読み返すことは、もうない。

 それでも、捨てられずにいる。未完の感情は、整理されないまま、引き出しの底で眠っている。


 ◇


 正博は、その手紙を見た。


 書いたことを、覚えている。

 何度も推敲し、何度も書き直し、結局、何も決めない文章に落ち着いた。


 ——あれが、俺の限界だった。


 彼女に、何かを与えたかった。

 だが、失うことが怖かった。家庭も、社会的立場も、自分自身の像も。


「代償だ」


 小鬼が告げる。


「この試練では、何も取り戻せない。ただ、残したものの重さを、引き受ける」


 正博の胸に、鈍い痛みが広がる。

 それは罪悪感というより、未熟さへの理解だった。


 ◇


 彼女は、手紙を元の場所に戻し、引き出しを閉めた。

 カップの中の紅茶は、すでに冷めている。


「もう、いいわ」


 そう呟くと、不思議と胸が軽くなった。

 許したわけでも、忘れたわけでもない。ただ、時間が、ようやく現在に追いついた。


 窓の外で、雨が降り始める。

 小さな音。だが、確かな変化。


 ◇


 正博は、その様子を見ながら、ひとつの決断を下した。


 ——彼女を、思い出に戻そう。


 彼女を、逃げ場としてではなく、過去の一部として、正しく位置づける。

 それは、彼女を手放すことでもあり、自分の未熟さを認めることでもある。


 正博の輪郭が、また薄くなる。

 恋人であったという記憶。特別であったという錯覚。


 だが、その薄さの中に、奇妙な静けさが生まれた。


 ◆


 小鬼は、雨音に耳を澄ませるように、しばらく黙っていた。


「五つ目、終わりだ」


 そう告げると、正博の存在を、次の場所へ導く。


「恋は、人を救うこともある。だが、多くの場合、救われたい側の言い分だ」


 彼女の部屋は、ゆっくりと遠ざかる。

 雨は、変わらず降り続いている。


 正博は、最後に一度だけ、彼女に向かって頭を下げた。

 言葉はない。謝罪でも、感謝でもない。ただ、認識のための所作。


 ——ありがとう。


 声にならないその思いは、誰に届くこともなく、しかし確かに存在した。


 小鬼の声が、次を告げる。


「次は、糸だ」


 家族という名の、切れやすく、絡まりやすいもの。

 正博は、次なる試練が、これまで以上に逃げ場のないものであることを、まだ知らない。


 ——第五の試練は、静かに終わった。

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