第4話 労働の鎖
彼の記憶は、いつも蛍光灯の白さから始まる。
朝でも夜でも変わらない光。季節の匂いを遮断する天井。空調の一定の唸り。
それが、仕事という場所だった。
元部下の名は、佐伯 恒一。
正博より二十歳近く若い。かつて同じ部署に配属され、同じ時間帯に出社し、同じ種類の疲労を抱えていた男だ。今では課長補佐という肩書きを持ち、机の位置も、発言の重みも、少しだけ変わった。
だが、夜のオフィスに一人残ると、時間は簡単に巻き戻る。
自分がまだ新人だった頃、正博の背中を追いながら歩いた廊下。コピー機の前で立ち尽くし、指示を待っていた時間。
——仕事は、教わるものではない。
正博が、よく言っていた言葉だ。
当時の佐伯は、その意味を理解したつもりでいた。質問せず、迷いを見せず、ただ与えられた役割を果たす。それが「大人になる」ことだと、思い込んでいた。
◇
正博は、そのオフィスに立っていた。
見慣れた空間。
自分が長年、居場所だと信じてきた場所。
机の配置は変わっている。壁の掲示物も、新しい規定に差し替えられている。それでも、空気の密度は変わらない。
——ここにいると、時間が一方向にしか流れない。
「第四だ」
小鬼の声がする。
「労働の鎖。お前が自分を縛り、他人も縛ったものだ」
正博は、佐伯の背中を見た。
彼はキーボードを叩きながら、時折、画面から目を離し、目を閉じる。その一瞬に、疲労が滲む。
——あの頃の俺と同じだ。
そう思った瞬間、胸の奥が疼いた。
◇
佐伯の視線は、モニターの数字から、ふと外れた。
窓の外は暗い。
ガラスに映る自分の顔は、思っていたより老けて見える。まだ四十前だというのに、口元には緊張が張り付いている。
「……道端さん」
誰もいないオフィスで、名前を呼んでみる。
返事はない。
正博が亡くなったと聞いたとき、佐伯は驚かなかった。
寿命だと聞き、納得もした。あの人は、仕事のために身体を使い切った。そういう印象が、強かった。
——使い切った、か。
その言葉に、違和感が残る。
使い切ったのは、身体だけだったのか。
佐伯は、椅子に深く腰をかけ、天井を仰いだ。
蛍光灯の光が、目に滲む。
◇
正博は、佐伯の記憶の中に、ゆっくりと沈み込んでいく。
新人時代の佐伯。
書類のミスを指摘した場面。声を荒げたわけではない。ただ、淡々と、効率の悪さを説明した。
——感情を挟まない。それが、公平だ。
そう信じていた。
だが、その夜、佐伯は終電まで残り、やり直しをしていた。
正博は、先に帰った。
「若いんだから、体力はあるだろう」
そう思ったことを、今になって思い出す。
——鎖は、見えない。
小鬼の言葉が、正博の内側で反響する。
「お前は、努力を美徳にした。その美徳は、鎖になった」
正博は、反論しようとした。
努力は必要だ。仕事は甘くない。現実は、理想通りにはいかない。
だが、言葉は出なかった。
◇
佐伯は、ふと、ある場面を思い出す。
数年前、体調を崩し、休暇を申請しようとしたときのことだ。
正博は、申請書を見て、一瞬だけ眉を動かした。
「無理はするな」
そう言った。
だが、その後に続いた言葉が、佐伯の胸に残っている。
「ただ、締切は待ってくれない」
それは事実だった。
正博は、嘘を言っていない。
——でも。
佐伯は、そのとき、自分の体調よりも、仕事の進捗を優先した。
休暇は取り下げられ、翌日には職場に戻った。
それが、正しかったのかどうか。
今でも、答えは出ていない。
◇
正博は、その場面を、別の角度から見ていた。
自分は、気遣ったつもりだった。
無理をするな、と言った。配慮した。上司として、最善を尽くした。
——だが、最善とは何だ。
結果として、佐伯は休まなかった。
言葉の後半が、前半を打ち消した。
「仕事を優先する人間を、評価してきただろう」
小鬼が、淡々と告げる。
「それが、会社を回す。そう信じてきた」
正博は、頷きかけて、止まる。
——信じてきた、というより、疑わなかった。
疑えば、自分の生き方全体が揺らぐ。
だから、鎖は強固になった。
正博の輪郭が、また一段、薄くなる。
肩書き。役職。成果。
◇
佐伯は、椅子から立ち上がり、コピー機の前に立つ。
紙の擦れる音が、静かなオフィスに響く。
その音を聞きながら、佐伯は思う。
——道端さんは、悪い人じゃなかった。
むしろ、真面目で、誠実で、信頼できる上司だった。
だが、その誠実さが、誰かを追い詰めた可能性を、佐伯は否定できない。
「……俺も、同じか」
自分もまた、部下に同じ言葉を使ってきた。
無理をするな。だが、締切は守れ。
その言葉が、鎖になるかどうか。
それは、受け取る側の問題なのか、それとも、発する側の責任なのか。
答えは、簡単には出ない。
◇
正博は、佐伯の背中を見ながら、初めて、ある衝動に駆られた。
——この場所を、手放したい。
仕事は、自分の人生だった。
誇りであり、逃げ場であり、存在証明だった。
だが、今、そのすべてが、鎖として見える。
「切るか」
小鬼が問う。
「鎖を切れば、お前は軽くなる。だが、仕事で築いた自己は、消える」
正博は、迷った。
仕事を失った自分を、想像したことがなかった。
——それでも。
正博は、静かに頷いた。
その瞬間、オフィスの風景が、ひび割れる。
机も、書類も、蛍光灯も、細かな光の粒となって、崩れていく。
正博の胸から、重たい何かが、剥がれ落ちた。
◆
小鬼は、その様子を、冷静に見届けた。
「四つ目、終わりだ」
正博は、驚くほど軽くなっていた。
同時に、空っぽでもあった。
「労働は、人を支える。だが、支えすぎると、人を縛る」
小鬼は、そう言って、次の時間を呼び寄せる。
佐伯の姿は、遠ざかる。
彼は、再びキーボードに向かい、だが、ほんの一瞬だけ、手を止めた。
その小さな間が、鎖の痕跡だった。
——第四の試練は、終わった。
正博は、次に待つものを、まだ知らない。
それが、さらに私的で、さらに曖昧な領域であることを。
小鬼の声が、静かに告げる。
「次は、恋だ」
時間は、また折り畳まれた。
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