第3話 友情の影

 健の喉には、いつも乾いた違和感があった。

 酒を飲めば一時的に紛れるが、翌朝には必ず戻ってくる。医者は加齢のせいだと言った。健自身も、そういうことにしている。六十という数字は、あらゆる不調を黙らせる免罪符として、ずいぶん便利だった。


 居酒屋の暖簾をくぐると、油と醤油の匂いが鼻を打った。

 平日の夜だというのに、店内は賑やかだった。仕事終わりの男たち、声の大きい若者、無言で盃を傾ける初老の客。誰もが、今日一日を終わらせるために、ここに集まっている。


 健は、カウンターの端に腰を下ろした。

 この席は、いつも正博が座っていた場所だ。理由はない。ただ、入口から少し離れていて、落ち着くというだけのことだった。


「生、ひとつ」


 短く注文し、健はグラスを受け取る。

 泡が立ち上がる様子を見ながら、ふと、時間が巻き戻る感覚に襲われた。


 ——いつから、ひとりで飲むようになった。


 正博が死んでから、まだ二週間も経っていない。

 訃報を聞いたとき、健は現実感を持てずにいた。あいつが死ぬなら、まず自分だろう。そんな身勝手な理屈を、心のどこかで信じていた。


「寿命だってさ」


 誰かがそう言ったとき、健は曖昧に頷いた。

 寿命。便利な言葉だ。説明を省き、感情を切り捨てることができる。


 だが、今になって、喉の奥に引っかかる。


 ——寿命で終わる関係も、あるのか。


 ◇


 正博は、健の隣に立っていた。


 カウンター越しに、店主と健のやり取りを見下ろしている。だが、健は気づかない。気づくはずがない。正博は、もうこの世界の密度を持っていなかった。


「第三だ」


 小鬼の声が、低く響く。


「友情の影。お前が軽く扱ったものが、どれだけ重かったかを見る」


 正博は、健の横顔を見つめた。

 皺が増えた。髪も薄くなった。それでも、笑うときの口元は、昔のままだ。学生時代、安酒を飲みながら、将来の話をした夜が思い出される。


 ——あの頃は、何も怖くなかった。


 二人は、同じ会社に入ったわけではない。

 だが、社会に出てからも、年に何度かは顔を合わせていた。互いの仕事を詳しく知ることはなかったが、それで十分だと思っていた。


「元気か?」


「まあな」


 そのやり取りだけで、関係が保たれていると、信じていた。


 ◇


 健は、グラスを空け、二杯目を頼んだ。

 喉を通るアルコールが、言葉の栓を緩める。


「……正博さ」


 誰に向けてでもなく、健は呟いた。

 隣には誰もいない。それでも、声は出た。


 あの夜のことを、健は思い出す。

 数年前、久しぶりに二人で飲んだ夜だ。正博は、仕事の愚痴をこぼし、部下の話をし、家の話を避けた。健は、それを深く突っ込まずに、笑って聞いていた。


 ——踏み込まないのが、大人の友情だ。


 そう思っていた。


 だが、その夜の終わり際、正博は珍しく言葉を詰まらせた。


「……俺さ」


 そこから先を、健は待たなかった。

 冗談で遮り、話題を変えた。重くなるのが嫌だったのだ。自分も、何かを語らなければならなくなる気がしたから。


 今、その沈黙が、影のように健の背後に立つ。


「言わせてやればよかったな」


 健は、空になったグラスを見つめる。

 誰に許しを請うでもない独り言。


 ◇


 正博は、その言葉を聞いた。


 健の後悔は、鋭くはなかった。だが、鈍い重みを持っていた。

 ——そうだ。あのとき、俺は、聞いてほしかった。


 だが同時に、別の思いが湧く。


 ——聞かせる覚悟も、なかった。


 正博は、自分が友情を「休憩所」のように使っていたことを悟る。

 疲れたときに立ち寄り、また仕事へ戻るための場所。相手の人生に踏み込まず、自分の核心も見せない。


 それは、楽だった。

 だが、楽であることと、誠実であることは、同じではない。


「ここだ」


 小鬼が言う。


「お前は、軽さを選んだ。その結果が、この影だ」


 正博の足元に、長い影が伸びる。

 健の影と重なり、二つの輪郭が曖昧になる。


 ◇


 健は、ふと顔を上げた。


 カウンターの向こうに、見慣れた背中がある気がした。

 スーツ姿で、少し猫背の男。肩をすくめるような癖。


「……まさか」


 健は、苦笑して首を振る。

 見えるはずがない。いるはずがない。


 だが、その錯覚は、奇妙な温度を持っていた。

 懐かしさと、少しの苛立ち。


「お前さ」


 健は、空間に向かって話しかける。


「もっと、面倒くさいやつだと思ってたよ」


 声に出して言うと、胸の奥が、わずかに軽くなった。

 友情とは、相手を知ることではなく、誤解したままでも続く関係なのかもしれない。だが、誤解を解く機会を、永遠に失うこともある。


 健は、最後の一杯を飲み干した。


 ◇


 正博は、その言葉を、確かに受け取った。


 面倒くさい。

 それは、悪い評価ではなかった。むしろ、健なりの親しみだったのだろう。


 ——俺は、面倒を避けていた。


 その自覚が、胸を満たす。

 正博の輪郭が、また一段、薄くなる。友であるという自己像。対等であるという安心感。


「三つ目、終わりだ」


 小鬼の声は、相変わらず淡々としている。


「友情は、残酷だ。家族ほど近くなく、他人ほど遠くもない」


 正博は、健を見た。

 彼は席を立ち、勘定を済ませ、夜の街へ出ていく。背中は、少し丸まっている。


「……ありがとう」


 正博は、初めて、声にならない言葉を誰かに向けた。

 届かなくてもいい。ただ、存在した事実として。


 ◆


 小鬼は、二人の影が離れていくのを見届けた。


「次は、鎖だ」


 そう告げると、時間は再び折り畳まれる。


 正博は、仕事という名の場所へ引き戻されるだろう。

 彼が最も長く縛られ、同時に最も誇りにしていたもの。


 友情の影は、消えない。

 だが、影を影として認識したとき、人はようやく、光の方向を知る。


 ——第三の試練は、静かに終わった。

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