第2話 沈黙の声
遥の耳には、いつも音が多すぎた。
オフィスの空調が吐き出す乾いた風の音。キーボードを叩く指の規則的な衝突音。電話の呼び出し音と、それに続く型どおりの挨拶。昼休みには、電子レンジの鈍い唸りと、誰かの笑い声が重なって響く。
それらはすべて、生活のために必要な音だった。
だが、必要であるがゆえに、遥はそれらを「聞かない」技術を身につけていた。音は背景になり、意識はその奥に引っ込む。そうしなければ、一日をやり過ごすことができなかった。
父が亡くなってから、数日が経っていた。
会社は忌引きを認めてくれたが、遥は三日で職場に戻った。理由を問われると、「家にいても仕方がないので」と答えた。それは半分、嘘だった。家にいると、あまりにも多くの「声」が聞こえてしまうからだ。
父の声は、もともと大きくなかった。
記憶の中でも、彼はいつも控えめな音量で話している。命令することも、感情をぶつけることも少なかった。ただ、仕事の話を淡々とし、必要なことだけを伝える。その静けさが、遥には長い間、冷たさに思えた。
——お父さんは、私に興味がなかった。
そう結論づけることで、遥は自分を守ってきた。
その日、午後三時を少し回った頃。
遥は資料を画面に映しながら、会議室で説明をしていた。緊張はない。こうした場面には慣れている。声の調子も、間の取り方も、すべて計算済みだ。
そのとき、ふと、耳鳴りのような静寂が訪れた。
音が消えたわけではない。
だが、すべての音が、一瞬だけ遠ざかった。
遥は言葉を切り、瞬きをした。
会議室の同僚たちは、誰も異変に気づいていない。プロジェクターの光だけが、変わらず壁に映っている。
——気のせい。
そう思って話を続けようとした、その瞬間。
「……遥」
誰かが、名前を呼んだ。
声は低く、かすれていた。
聞き覚えがあるはずなのに、すぐには思い出せない。長い時間をかけて、封をしたはずの記憶の底から、ゆっくりと浮かび上がってくる音。
遥の喉が、ひくりと鳴った。
◇
正博は、娘の職場に立っていた。
正確には、「立っているような場所」に存在していた。床はあるが、踏みしめる感覚はない。壁はあるが、触れることはできない。人々は彼の間をすり抜けるように行き交い、誰一人として彼を認識しない。
「ここが第二だ」
小鬼の声が、背後から聞こえる。
「沈黙の声。お前が届けなかったものを、届ける」
正博は、遥の背中を見つめた。
背筋を伸ばし、画面を指し示しながら話す姿は、知らない他人のようだった。いつから、こんな表情をするようになったのだろう。仕事をしているときの自分に、少し似ている。
——似せた覚えはない。
それでも、血や時間は、勝手に影響を残す。
正博は声を出そうとした。
だが、第一の試練と同じように、言葉は喉で止まる。叫ぼうとしても、音にならない。
「直接は無理だ」
小鬼が言う。
「声は、記憶を通してしか届かない」
記憶。
正博の中に、ある場面が浮かんだ。
遥が中学生だった頃。
進路の話をしようとして、結局、天気の話で終わった夜。彼は仕事で疲れていて、娘の不安に向き合う余裕がなかった。
——また今度、でいい。
その「今度」は、ついに来なかった。
その記憶が、形を変えて、空間に滲み出す。
◇
遥の視線は、突然、遠くなった。
会議室の壁が、揺らぐ。
スクリーンに映っていた数字が、溶けるように崩れ、別の光景に置き換わる。
自分の部屋。
机に向かう中学生の自分。
ドアの向こうで、父の足音がする。
——あ。
遥は、息を呑んだ。
あの夜だ。
覚えていないつもりでいた夜。
ドアは開かなかった。
父は、何か言いかけて、やめたのだ。廊下を行き来する足音だけが、しばらく続き、やがて遠ざかった。
そのときの沈黙を、遥は「拒絶」だと思っていた。
だが今、別の音が重なる。
「どうして――」
かすかな声。
迷いと躊躇を含んだ、未完成な問い。
遥の胸が、締め付けられた。
——聞こえなかった。
いいえ、聞こうとしなかった。
父は、黙っていたのではない。
声にならない声を、そこで確かに発していた。
会議室に、誰かが遥の名を呼ぶ。
現実の声だ。
遥は、はっとして瞬きをした。
スクリーンは元に戻り、同僚たちがこちらを見ている。
「……すみません。続けます」
声は、わずかに震えた。
だが、その震えを、誰も指摘しない。
◇
正博は、その様子を見ていた。
遥の表情が変わったことを、彼は見逃さなかった。ほんの一瞬、彼女の顔に、子どもの頃の面影が浮かんだ。助けを求める目だ。
——遅い。
その思いが、胸に広がる。
今さら何を届けても、埋められない時間がある。
「それでもだ」
小鬼が言う。
「沈黙は、誤解を生む。だが、声が存在した事実は、残る」
正博は、もう一度、記憶を辿った。
遥が社会人になった日。
「頑張れよ」と言いかけて、「無理するな」に変えた言葉。
そのどちらも、結局、曖昧に濁した。
——言葉を選ぶふりをして、逃げていただけだ。
その自覚が、正博の輪郭を、さらに薄くした。
◇
仕事を終え、夕暮れの駅へ向かう道。
人の流れに身を任せながら、遥は、胸の奥に残る違和感を抱えていた。
あの声は、幻聴だったのか。
疲れのせいか。喪失の反動か。
だが、不思議と怖くはなかった。
父の声は、叱責でも、命令でもなかった。ただ、確認するような、頼りない音だった。それが、かえって現実味を帯びていた。
——お父さんも、わからなかったのかもしれない。
改札を抜けたとき、遥は、無意識に振り返った。
そこに誰もいないことを、知っていながら。
◆
小鬼は、二人の距離を測るように眺めていた。
声は届いた。完全ではないが、確かに。
「二つ目、終わりだ」
正博の存在は、また少し削られる。
父であるという自負。理解されなかったという被害意識。
「次は友だ」
小鬼は、淡々と告げる。
正博は、最後にもう一度だけ、遥を見た。
彼女は歩きながら、スマートフォンの画面を消し、空を見上げている。
その横顔に、わずかな変化があった。
沈黙の中に、別の響きが生まれつつある。
——それでいい。
正博は、そう思った。
そして、第三の試練へ向かう時間が、再び折り畳まれた。
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