蘇るための十二の試練

小林一咲

第1話 死の列と、忘却の鏡

 正博の意識は、列という形をとって初めて自分が死んだことを理解した。

 人は死ぬと孤独になると聞いていたが、ここでは違う。むしろ多すぎるほどに人がいる。前も後ろも、左右も、同じ方向を向いた背中で埋め尽くされている。誰一人として振り返らない。振り返る必要がないからだ。行き先は決まっている。疑問を差し挟む余地のない、緩やかな必然。


 正博は六十年分の時間を背負って立っているはずだったが、その重みは奇妙なほど希薄だった。身体の感覚がない。息苦しさも痛みもない。ただ、胸の奥に、説明のつかない空洞がある。仕事を終えたあとの夜に似ていた。すべてをやり切ったはずなのに、何も残っていないときの感覚。


「寿命、か」


 誰に聞かせるでもなく呟くと、その言葉は霧のように消えた。事故でも病でもない死。予定表の最後に、静かに書き込まれた終わり。

 ——それでいいのだ、と生きている間は思っていた。誰にも迷惑をかけず、粛々と幕を引く。理想的ですらある。


 だが今、その理想は拍子抜けするほど味気ない。


 列はほとんど動かない。動かないが、止まってもいない。時間が伸び縮みしているようだった。前の男の背中を見つめていると、なぜか自分の背中を見ている気分になる。スーツの肩口に残る癖、わずかに猫背な姿勢。

 ——ああ、俺はこうやって歩いてきたのか。


「お前、まだ戻れるよ」


 声は、列の外側から来た。


 正博が顔を上げると、背丈の低い影がそこにいた。子どものようで、老人のようでもある。角の生えたその存在は、いかにも想像通りの「小鬼」だったが、恐怖は湧かなかった。むしろ、長年の取引先で見慣れた担当者に似た、事務的な気配があった。


「身体は無事だ。心臓も、脳もね。条件付きだが、生き返ることはできる」


 条件。その言葉に、正博は生前の会議室を思い出した。条件のない提案など存在しない。


「……条件とは」


「十二の試練だ」


 小鬼は簡単に言った。まるで書類の枚数を告げるように。


「難しくはない。走ったり、戦ったりはしない。ただ、自分の人生を、他人の目で見直すだけだ」


 正博は列を見た。誰もこちらを見ない。誰も、声をかけられていないようだった。


「断ってもいい。そうしたら、このまま進む。それだけだ」


 ——進めば、何がある。

 その問いは、なぜか浮かばなかった。正博は、自分が何に向かって生きてきたのかを、思い出せなくなっていた。


「……試練に失敗したら」


「そのときは、ちゃんと死ぬ」


 小鬼は笑った。それは残酷さというより、制度への忠実さの笑みだった。


 正博は、しばらく黙っていた。

 生き返りたいか、と問われても、即答はできない。だが、このまま終わることに納得しているかと問われれば、答えは決まっていた。


「やるよ」


 小鬼は小さく頷いた。


「じゃあ、第一だ」


 ◆


 恵子の視線は、洗面所の鏡に吸い寄せられていた。

 朝だ。目覚ましは鳴らなかった。鳴らす必要がないからだ。もう、誰も起きてこない。


 鏡の中の自分は、思っていたより老けていなかった。その事実が、なぜか腹立たしい。もっと疲れ切った顔をしているはずだった。夫を失った女の顔を。


「……正博」


 名前を呼ぶと、鏡の中の女が口を動かした。声は返らない。

 洗面台の端に、彼の髭剃りがそのまま置いてある。片付ける気になれず、かといって使うこともない。使われないままの道具が、家のあちこちに増えていく。


 恵子は、ふと鏡の奥に気配を感じた。

 誰かが、こちらを見ている。


 ◇


 正博は、鏡の中に立っていた。


 それは部屋でも夢でもなかった。境界のない空間に、ただ一枚の鏡が浮かんでいる。鏡面は静かで、しかし深い。覗き込むと、自分の顔が映る——はずだった。


 映っていたのは、恵子だった。


 朝の光の中で、彼女はひとり洗面所に立っている。肩が、ほんの少し落ちている。その落ち方を、正博は初めて意識した。いつからだろう。彼女の肩が、ああして重力に従うようになったのは。


「これが第一だ」


 背後で、小鬼の声がした。


「忘却の鏡。お前が見なかったものを見る」


 正博は声を出そうとした。だが、声は出ない。鏡の向こうの恵子は、彼の存在に気づかない。ただ、淡々と歯を磨き、顔を洗い、タオルで拭く。


 ——こんな朝を、何度見逃してきただろう。


 フラッシュバックのように、過去の朝が差し込む。

 スーツに袖を通しながら、新聞を読み、コーヒーを飲む自分。恵子はその向かいで、何かを言いかけて、やめる。その沈黙を、正博は「理解」と呼んでいた。


 鏡の中の現在。

 恵子は、タオルを畳みながら、小さく息を吐いた。それは泣き声ではない。ただの呼吸だ。だが、その呼吸の中に、六十年分の言葉が含まれていることを、正博は感じ取ってしまった。


 胸の空洞が、きしりと音を立てる。


「成功とか失敗とかじゃない」


 小鬼が言う。


「見ろ。覚えろ。それだけだ」


 鏡の表面に、ひびが入ったように、映像が揺らぐ。

 若い頃の恵子が映る。笑っている。怒っている。期待している。

 そのすべての視線が、正博を通り過ぎて、何か別のものを見ていた。


 ——仕事。数字。評価。


 正博は、初めて知った。

 自分が「何もしなかった」ことの重さを。


 鏡が、静かに暗転する。


 ◆


 小鬼は、その様子を黙って見ていた。

 人間はいつも同じだ。失ったあとで、ようやく見る。見たところで、取り返しはつかない。それでも試練は続く。制度だからだ。


「一つ目、終わりだ」


 そう告げると、正博の輪郭が、わずかに薄くなった。

 何かが削られたのだろう。誇りか、言い訳か、それとも自分は正しかったという感覚か。


 小鬼は思う。

 十二すべてを越えられる人間は、ほとんどいない。


 だが、稀にいる。

 失うことを恐れなくなった者だけが、最後まで残る。


「さて、次は娘だ」


 小鬼はそう言って、時間を折り畳んだ。


 ——第一の試練は、終わった。

 だが、正博の人生は、ようやく始まり直そうとしていた。


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