第2話 部室の「儀式」
部室の扉のわずかな隙間。そこは、俺の世界を反転させる地獄への覗き穴だった。
スマートフォンの画面越しに見る光景は、現実感を欠いた悪い映画のようでありながら、鼓膜を震わせる音だけが生々しく脳髄に突き刺さってくる。
「んっ……ううっ……」
聞き慣れた、愛おしいはずの声が、艶を含んだ卑しい響きとなって漏れ出る。
藤宮美波。俺の恋人。俺の幼馴染。
彼女は今、野球部のエース・豪徳寺猛の足元に跪き、その頭を垂れていた。
薄暗い部室の中、パイプ椅子に踏ん反り返る豪徳寺は、まるで家畜を見るような目で美波を見下ろしている。その表情には、嗜虐的な快楽と、他人の大切なものを踏みにじる優越感が張り付いていた。
「おいおい、もっと気持ちを込めろよ。誰のためにやってると思ってんだ?」
豪徳寺が美波の髪を乱暴に掴み、強引に上を向かせる。
美波の瞳は潤み、頬は紅潮していた。それが恥辱によるものなのか、あるいは別の感情によるものなのか、今の俺には判断がつかない。ただ、彼女の口から零れた言葉は、俺の心臓を凍りつかせた。
「……駆くん、のため……です」
掠れた声。だが、はっきりと俺の名前を呼んだ。
「そうだろ? お前がこうやって俺に奉仕すれば、あいつを部活に置いておいてやる。万年補欠の雑魚でも、マネージャーの彼氏って立場くらいは守れるようにな」
「はい……ありがとうございます……豪徳寺先輩……」
美波は抵抗するどころか、感謝の言葉を口にした。
俺の頭の中で、何かが音を立てて切れた。
感謝? なぜだ?
なぜ怒らない? なぜ拒絶しない?
俺を守るため? ふざけるな。俺はそんな惨めな保護なんて頼んでいない。
「駆は本当に幸せもんだなぁ。才能がねぇ上に、女に身体張ってもらってまで野球部にしがみついてんだからよ」
「駆くんは……努力してるんです。弱いけど……私が支えてあげないと、ダメになっちゃうから……」
美波の言葉が、鋭利な刃物となって俺のプライドを切り裂く。
彼女は信じているのだ。心底から。
俺が無能で、弱くて、彼女の犠牲なしでは生きていけない哀れな存在だと。
「守ってあげなきゃ」という言葉の裏にあるのは、無意識の侮蔑だ。彼女は俺の可能性をこれっぽっちも信じていない。
俺が夜遅くまでバットを振っていることも、指先の皮が擦り切れるまでボールを握っていることも、彼女にとっては「無駄な努力」でしかなかったということか。
(……撮れ。全部、撮るんだ)
俺は震える手を必死に抑え込み、スマートフォンのレンズを固定した。
ここで飛び込んで豪徳寺を殴り殺すのは簡単だ。だが、それでは俺の人生も終わる。暴力沙汰を起こせば、退部はおろか退学処分。そうなれば、あいつらの思う壺だ。
「嫉妬に狂った補欠が、エースとマネージャーを襲った」
そんな三流ゴシップの悪役にされて終わるだけだ。
俺は唇を噛み切りそうなほど強く食いしばり、呼吸を殺した。
画面の中では、行為がエスカレートしていく。
豪徳寺は美波の尊厳を徹底的に辱めるような命令を繰り返す。「俺の彼女ですって言いながら舐めろ」「駆の名前を呼びながら腰を振れ」。
その一つ一つに、美波は涙を流しながら従っていく。
その涙は、一見すれば被害者のものに見えるかもしれない。だが、俺には分かってしまった。
彼女の表情の奥底に、歪んだ陶酔があることを。
「愛する彼氏のために、汚れた役を引き受ける私」。そんな悲劇のヒロインという役割に、彼女は酔いしれている。
自己犠牲という美名の下に行われる、ただの不貞。
俺への愛情を口実にしながら、彼女は豪徳寺という強者の支配に身を委ね、その背徳感に濡れているのだ。
吐き気がした。
胃の腑から熱いものがこみ上げ、喉元まで酸っぱい味が広がる。
「よし、今日はこれくらいにしてやるか」
長い長い時間の果てに、豪徳寺が満足げな声を上げた。
俺は反射的に録画を停止し、音を立てないようにその場から離脱した。
廊下の角を曲がり、階段を駆け下りる。
足音が廊下に響かないよう、忍び足で、しかし全速力で。
校舎の外に出た瞬間、俺は植え込みの陰に身を隠し、激しく咳き込んだ。
「げほっ……うぇ……っ」
胃の中身を吐き出すことはなかったが、止まらない嗚咽が身体を震わせる。
汚い。
あいつらも、それを見ていた俺も、すべてが汚い。
夜風が汗ばんだ肌を冷やすが、身体の芯に残る不快感は消えない。
俺は震える手でスマートフォンを握りしめた。
画面には、数分間の動画ファイルが保存されている。
俺の青春を、愛情を、信頼を、粉々に粉砕した証拠。
「……絶対に、許さない」
口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど低く、冷え切っていた。
涙は出なかった。
悲しみは既に通り過ぎ、そこにあるのは冷徹な計算と、燃えるような復讐心だけだった。
俺を「守られるだけの弱者」と決めつけた美波。
俺を「玩具」として扱い、尊厳を踏みにじった豪徳寺。
二人とも、地獄に叩き落としてやる。
俺の実力で。俺の野球で。
エースの座を奪い取り、甲子園への切符を掴み取るその瞬間に、あいつらを絶望の淵へと突き落とす。
俺は夜の闇に紛れるようにして、家路についた。
その足取りは、来る時よりも重く、しかし確固たる意志に満ちていた。
* * *
翌朝。
俺はいつも通りの時間に登校した。
一睡もできなかった目は充血しているかもしれないが、鏡で見た自分の顔は、驚くほど平然としていた。
感情を殺すこと。それが今の俺に必要な唯一のスキルだ。
「駆くん! おはよう!」
校門の前で待っていたのは、美波だった。
昨夜の淫らな姿が嘘のように、爽やかな笑顔を浮かべて駆け寄ってくる。
制服の着こなしも乱れなく、髪も綺麗に整えられている。
だが、近づいてきた彼女から漂う甘い香水の匂いに、俺の鼻は敏感に反応した。
いつも彼女がつけている柑橘系の香りではない。
微かに混じる、ムスクのような男物の整髪料の残り香。そして、それを誤魔化すための強めのフローラル。
「おはよう、美波。昨日は遅かったみたいだね」
「うん、ちょっとね。備品の数が合わなくて、全部数え直してたの」
息をするように嘘をつく。
その表情に一点の曇りもない。
彼女の中では、昨日の行為も「備品整理」のような事務作業の一部として処理されているのだろうか。あるいは、「駆くんを守るための仕事」として正当化されているのか。
「大変だったな。無理すんなよ」
「大丈夫だよ! 駆くんのためだもん、これくらい平気!」
美波は無邪気に笑い、鞄から小さな包みを取り出した。
「はい、これ。昨日、帰りに買ったの」
「……これは?」
「リストバンド。駆くん、最近練習頑張ってるから。汗拭くのに使って」
青いリストバンド。
俺の好きな色だ。
だが、これを受け取った瞬間、俺の胸に湧いたのは感謝ではなく、強烈な嫌悪感だった。
「昨日、帰りに買った」。
昨日のアレの後に?
豪徳寺に奉仕した後、その足でこれを買ったのか?
罪滅ぼしか? それとも、汚れた自分を美化するためのアイテムか?
「……ありがとう。大切にするよ」
俺は笑顔を作って受け取った。
頬が引きつりそうになるのを必死に堪える。
このリストバンドは、彼女の裏切りの象徴だ。
だが、今はまだ知らないふりをしなければならない。
油断させ、泳がせ、最も効果的なタイミングで突きつけるために。
「よかったぁ。気に入ってくれて」
美波は安堵の息を吐き、俺の腕に自然としがみついた。
その温もりが、かつては俺の支えだった。今は、皮膚の上を這う冷たい蛇のようにしか感じられない。
教室に入ると、クラスメイトたちのざわめきが耳に入る。
俺たちの関係は公認だ。美波が俺にベタベタしていても、誰も不思議には思わない。
だが、その平和な空気を切り裂くように、教室のドアが乱暴に開かれた。
「よう、相沢。朝から熱いねぇ」
豪徳寺だ。
三年生の彼が、わざわざ二年の教室に来るなんて珍しい。
教室の空気が一瞬で張り詰める。
彼は俺たちの席まで大股で歩いてくると、俺の机に手をついて顔を覗き込んだ。
「おはようございます、豪徳寺先輩」
「おう。お前、昨日はちゃんと寝れたか? 彼女が遅くて寂しかったんじゃねぇの?」
ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ、意味ありげに美波の方を見る。
美波がサッと顔を伏せ、身体を硬直させるのが分かった。
この男は、楽しんでいる。
俺が何も知らないと思っているからこそ、ギリギリの言葉を投げて反応を伺い、優越感に浸っているのだ。
「いえ、ぐっすり眠れましたよ。美波も部活のために頑張ってくれてますから」
「ハハッ、そうかそうか。部活のために、な。いい心がけだ」
豪徳寺は俺の肩をポンポンと叩く。
その掌の感触が、昨夜美波の頭を鷲掴みにしていた手と同じものだと思うと、肩を切り落としたくなる衝動に駆られる。
「まあ、精々頑張れよ。お前のその『努力』が報われるといいな。……あ、そうだ」
豪徳寺は去り際に、ポケットから何かを取り出し、俺の机の上に放り投げた。
くしゃくしゃになった紙屑だ。
「ゴミ箱、遠くてさ。捨てといてくれよ、補欠くん」
クラス中が静まり返る。
明らかな侮辱。いじめに近い行為。
だが、誰も何も言えない。彼は学校のスターであり、逆らえばどうなるか皆知っているからだ。
俺は黙ってその紙屑を手に取った。
怒りで震えそうになる手を、机の下で強く握りしめる。
「……はい」
「素直でよろしい。じゃあな、美波ちゃん。今日の練習も『頼む』ぜ」
豪徳寺は美波にウィンクを投げかけ、悠々と教室を出て行った。
残されたのは、屈辱にまみれた俺と、気まずそうに俯く美波。
「ご、ごめんね、駆くん……先輩、ああいう人だから……」
「気にするな。慣れてる」
俺は紙屑をゴミ箱に捨てた。
その紙屑の中身を見るまでもなかったが、手触りで分かった。
高級タバコの空箱だ。
部室での喫煙。校内での喫煙。
昨日の動画にも、彼が喫煙している様子が映っていた。
こいつは、どこまでも隙だらけだ。自分が王様だと勘違いして、足元が崩れかけていることに気づいていない。
昼休み。
俺は一人で屋上に上がり、昨日の動画を見返した。
イヤホンから流れる美波の喘ぎ声と、豪徳寺の罵倒。
何度も何度も再生する。
心を麻痺させるために。怒りを純化させるために。
画面の中の美波は、確かに「駆くんのため」と言っていた。
だが、その言葉は呪いだ。
俺を縛り付け、俺から力を奪う呪いの言葉。
「見てろよ……」
俺は屋上のフェンスを強く握りしめた。
金網が手のひらに食い込む。
「俺は弱くない。お前たちが思っているような、守られるだけの存在じゃない」
俺の脳裏に、マウンドから見える景色のイメージが広がる。
打者をねじ伏せる快感。ミットにボールが収まる衝撃音。
俺には武器がある。
誰にも見せていない、研ぎ澄ませた爪がある。
次の週末には、恒例の紅白戦が予定されている。
例年であれば、補欠の俺には出番など回ってこない。せいぜいランナーコーチか、審判だ。
だが、今回は違う。
俺は既に、監督への根回しを済ませていた。
一週間前、俺は監督に直談判し、自分の投球データの分析レポートを提出した。
そこには、自分自身の球質の向上だけでなく、チームの投手陣、特に豪徳寺の配球の偏りや癖についても詳細に記してあった。
監督は驚いていた。「お前、こんなものまで見ていたのか」と。
そして約束を取り付けた。
「次の紅白戦、もしチャンスがあるなら、俺に投げさせてください。必ず抑えてみせます」と。
監督は半信半疑だったが、俺の熱意とデータの説得力に押され、「状況次第だが考えておく」と言ってくれた。
それだけで十分だ。
俺は必ずマウンドに立つ。
そして、豪徳寺を、あいつのプライドごと粉砕する。
午後の授業が終わり、放課後になった。
部室へ向かう足取りは、昨日までとは違っていた。
恐怖も迷いもない。
あるのは、獲物を狙う狩人のような静かな興奮だけ。
部室に入ると、既に何人かの部員が着替えていた。
豪徳寺は中央のベンチに座り、取り巻きたちと大声で笑っている。
「いやー、昨日のアレは最高だったわ。やっぱ女は従順なのが一番だよな」
「先輩、また新しい子ですか? さすがっすねぇ!」
具体的な名前こそ出していないが、その内容が昨日のことであるのは明白だ。
俺が入ってくると、豪徳寺はチラリとこちらを見て、ニヤリと笑った。
「お、相沢。今日も精が出るな。しっかり球拾いしてくれよ?」
俺は無言で会釈し、ロッカーを開けた。
ユニフォームに着替えながら、俺は自分の身体の変化を感じていた。
怒りがエネルギーに変わっている。
筋肉が張り詰め、感覚が鋭敏になっている。
今日の練習、俺は少しだけ「本気」を見せるつもりだった。
紅白戦の前に、豪徳寺に小さな恐怖を植え付けるために。
グラウンドに出ると、美波がドリンクを作っていた。
俺の姿を見つけると、パッと表情を明るくして手を振ってくる。
その無邪気さが、今はただただ滑稽だった。
彼女は気づいていない。
俺がもう、彼女の知っている「優しい駆くん」ではないことに。
全体練習が始まる前、俺はブルペンに向かった。
いつもならネット裏での球拾いが定位置だが、今日は違う。
キャッチャーの正捕手、大野先輩に声をかける。
「大野先輩、少し受けてもらえませんか?」
「え? 相沢? お前、ピッチャーやるのか?」
大野先輩は怪訝そうな顔をしたが、俺の真剣な眼差しに気圧されたのか、渋々ミットを持ってくれた。
「十球だけでいいです。お願いします」
俺はマウンドの土を踏みしめる。
プレートの感触。
隣のブルペンでは豪徳寺が投げ始めている。
ババン! といい音を響かせ、周囲の視線を集めている。
俺は深呼吸をした。
美波がこちらを見ている。豪徳寺も横目でこちらを見ている。
見せてやるよ。
俺の「守られるべき弱さ」とやらを。
振りかぶる。
足を踏み出す。
左手の壁を作り、右腕をしならせる。
身体の中に蓄積された怒り、屈辱、そして膨大な練習量。
それら全てを指先の一点に凝縮し、解き放つ。
ヒュッ――
風を切る音と共に、白球が糸を引くように伸びた。
ズドン!!
乾いた、しかし重厚な破裂音がブルペンに轟いた。
豪徳寺の球よりも鋭く、重い音。
大野先輩のミットが、衝撃でわずかに後方へ流れる。
「……は?」
大野先輩が目を見開き、自分のミットと俺の顔を交互に見る。
隣で投げていた豪徳寺の手が止まる。
ドリンクを作っていた美波の手から、ボトルが滑り落ちそうになる。
静寂。
グラウンドの空気が一瞬にして凍りついた。
俺は帽子のツバを深く被り直し、口元だけで冷たく笑った。
ざまぁみろ。
これはまだ、挨拶代わりだ。
「ナイスボール」
俺は小さく呟き、次のボールを握りしめた。
反撃の狼煙は上がった。
ここからが、俺のターンだ。
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