「あなたを守るためにエースに抱かれたの」と泣く彼女へ。その犠牲、全て無駄です。なぜなら僕は、裏でとっくにエースの実力を超えていたから

@flameflame

第1話 凡才の仮面と、彼女の秘密

乾いた捕球音が、西日の差し込むグラウンドに響き渡る。

スパイクが土を噛む感触。汗と土埃の混じった、野球部特有の匂い。

夏の大会を間近に控えた放課後のグラウンドは、独特の緊張感と熱気に包まれていた。


「おい、相沢! 球拾いが遅ぇぞ! 何ボーッとしてんだ!」


マウンドから飛んできた罵声に、俺、相沢駆(あいざわ かける)は反射的に頭を下げた。


「すみません、すぐに!」


俺は急いでバックネット裏に転がったボールを拾い上げ、バケツへと放り込む。

マウンドに立っているのは、この県立北高校野球部の絶対的エース、豪徳寺猛(ごうとくじ たける)だ。

身長185センチの恵まれた体格から繰り出される豪速球は、県内でもトップクラスと評されている。プロのスカウトが見に来るという噂も絶えない、まさにチームの王様だ。


対する俺は、背番号なしの補欠部員。

身長は175センチと平凡。入学当初から「球は遅いし、センスがない」と烙印を押され、二年生になった今でもベンチ入りすら危うい立場にいる。

周囲から見れば、俺はただの雑用係に毛が生えた程度の存在でしかないだろう。


「まったく、とろいんだよな、お前は。才能がねぇならせめて雑用くらいキビキビ動けよ」


豪徳寺が鼻で笑いながら、ロージンバッグを叩く。白い粉が舞う中、その視線は明らかに俺を見下していた。

彼にとって、俺のような存在は視界に入ることすら鬱陶しいのだろう。


「……はい」


俺は短く答え、表情を殺して作業に戻る。

悔しくないわけがない。だが、ここで感情的になっても意味がないことを俺は知っていた。

それに、俺が見ているのは豪徳寺の態度ではない。

俺が見ていたのは、彼の右肘の角度だ。


(……下がってる。カーブの時だけ、肘がわずかに下がる癖、まだ治ってないな)


ボールを拾いながら、俺は冷静に分析していた。

豪徳寺の球は確かに速い。だが、決して打てない球ではない。

彼の投球フォームには、疲労が溜まってくると出る微細な癖がある。さらに、セットポジションに入った時の呼吸のリズムで、牽制球を投げるかどうかが面白いほど分かるのだ。

俺は散らばったボールを集めながら、頭の中でシミュレーションを繰り返す。

今の甘いカーブなら、踏み込んで左中間に運べる。あるいは、あえて見逃してカウントを整え、次のストレートを狙い撃つか。


「駆くん! 大丈夫?」


思考に沈んでいた俺の耳に、鈴を転がしたような声が届いた。

ベンチから駆け寄ってきたのは、マネージャーの藤宮美波(ふじみや みなみ)。

俺の幼馴染であり、一年ほど前から付き合っている恋人だ。

ポニーテールにまとめた黒髪が揺れ、心配そうに眉を寄せた顔が覗き込んでくる。スポーツドリンクの入ったボトルとタオルを抱えたその姿は、いかにも野球部のマネージャーといった清楚な可愛らしさがあり、部内でもファンが多い。


「大丈夫だよ、美波。ただ怒られただけだから」

「でも……豪徳寺先輩、駆くんにだけ当たりが強い気がする。私が、ちゃんと言ってくる!」

「いいって、やめろよ。余計に拗れるだけだ」


俺は慌てて美波の腕を掴んで止める。

美波は正義感が強いというか、昔から俺のことを過剰に守ろうとする節があった。

「駆くんは優しいから、私がついててあげないと」

それが彼女の口癖だった。

子供の頃、いじめっ子に絡まれていた俺を庇ってくれた時のように、彼女の中での俺はまだ「守られるべき弱い存在」のままなのだろう。

それが男として少し情けなくもあるが、彼女なりの愛情表現だと受け入れていた。これまでは。


「だって……駆くんが一生懸命練習してるの、私知ってるもん。一番早く来て、一番遅くまで残ってる。それなのに、あんな言い方ひどいよ」


美波は潤んだ瞳で訴えてくる。

その純粋な気持ちは嬉しい。だが、最近の彼女の様子には、どこか違和感を覚えていた。

俺を庇う時の必死さが、以前よりも強迫的になっている気がするのだ。まるで、何かに怯えているような。


「おい、マネージャー! ドリンク!」


豪徳寺の不機嫌そうな声が飛ぶ。

その瞬間、美波の肩がビクリと大きく跳ねた。


「は、はい! 今すぐ!」


美波は俺に向けていた優しい顔とは裏腹に、顔色をサッと青ざめさせて豪徳寺の方へ走っていく。

その背中を見送りながら、俺は胸の奥に黒い澱のようなものが溜まるのを感じた。


豪徳寺にタオルを渡す美波の手が、微かに震えている。

豪徳寺はタオルを受け取りながら、何かボソボソと美波に耳打ちをした。

距離があるため内容は聞こえない。だが、その言葉を聞いた美波の表情が、一瞬だけ恐怖に歪み、すぐに作り笑いを浮かべたのを、俺は見逃さなかった。

そして、豪徳寺はニタリと下卑た笑みを浮かべ、美波の二の腕を指先でなぞるように触れた。


「……ッ」


俺の中で、熱いものがこみ上げる。

あからさまなセクハラだ。今すぐ駆け寄って、あの手を振り払いたい。

だが、美波は拒絶しなかった。

いや、拒絶できなかったのか?

彼女は強張った笑顔のまま、されるがままになっている。そして、チラリと俺の方を盗み見た。

その目は、「ごめんね」と言っているようにも、「見ないで」と言っているようにも見えた。


(……何なんだよ、今の空気は)


俺は握りしめたボールの縫い目が指に食い込む痛みで、なんとか理性を繋ぎ止める。

最近、美波と豪徳寺の間に流れる空気がおかしい。

豪徳寺が俺をいびり、美波がそれを庇う。そこまではいい。

だが、その後の美波の態度が、単なるマネージャーの業務の範疇を超えて、豪徳寺の機嫌を取ることに固執しているように見えるのだ。

まるで、地雷を踏まないように細心の注意を払う兵士のように。


「集合ー!」


監督の声がかかり、全体練習が終わりを告げる。

俺はモヤモヤした気持ちを抱えたまま、グラウンド整備へと向かった。

トンボをかけながら、俺は自分の無力さを噛み締める。

結局、今の俺は「補欠」だ。

どれだけ分析力があっても、どれだけ裏で努力していても、試合に出て結果を出さなければ発言権はない。

豪徳寺のような横暴な人間に、美波が気を使わなければならないのも、俺に力がないからだ。


「駆くん」


部室へ戻る途中、美波が待ち構えていたように声をかけてきた。

先ほどの怯えた表情は消え、いつもの愛らしい彼女に戻っている。


「お疲れ様。今日、一緒に帰れる?」


俺が尋ねると、美波は申し訳なさそうに視線を逸らした。


「ごめんね……。今日は、スコアブックの整理とか、備品の確認とかがあって。少し遅くなりそうなの」

「そっか。手伝おうか?」

「ううん! 大丈夫! 駆くんは疲れてるでしょ? 先に帰ってて。……お願い」


最後の「お願い」という言葉に、拒絶の響きが含まれているように感じて、俺は言葉を飲み込んだ。

彼女が俺に隠し事をしている。その確信めいた予感が、胃の腑を冷たくする。

だが、証拠もないのに疑うわけにはいかない。俺は無理やり笑顔を作った。


「分かった。無理するなよ」

「うん。ありがとう、駆くん。……大好きだよ」


美波はそう言うと、逃げるように部室棟の奥、監督室や用具室がある方へと早足で去っていった。

「大好きだよ」という言葉が、これほど空虚に響いたことはなかった。

まるで、自分自身に言い聞かせているかのような、あるいは罪悪感を塗りつぶすための呪文のような響き。


俺は一人、校門を出た。

だが、足は家とは反対方向へ向かっていた。

このまま帰っても、胸のざわつきが収まるとは思えなかったからだ。

向かった先は、学校から数駅離れた場所にある、古びたバッティングセンターだ。

ここは夜遅くまで営業しており、高校球児はあまり来ない穴場だ。俺は中学時代からここに通い詰めている。


「おっちゃん、いつもの」

「おう、相沢。今日もやるんか」


受付の無愛想な店主に小銭を渡し、俺は一番奥のレーンに入る。

ここはピッチング練習用の的がある特別なスペースだ。

俺は鞄からマイグローブを取り出し、丁寧に手にはめる。

使い込まれて革が柔らかくなった相棒。

俺の、本当の姿を知っている唯一の理解者。


深呼吸を一つ。

学校での「凡才・相沢駆」の仮面を脱ぎ捨てる。

俺は大きく振りかぶった。

全身の筋肉が連動し、指先から力が解き放たれるイメージ。

誰よりも走り込み、誰よりも下半身を鍛え上げてきた自負がある。

才能がないなら、理論と量でカバーするしかないと、血を吐くような思いで積み重ねてきた日々。


バシュッ!!


静寂を切り裂くような鋭い音が、狭い空間に反響した。

ボールは一直線に伸び、的の中心にある「ストライク」の文字を正確に撃ち抜いた。

球速表示は出ていないが、体感で分かる。

140キロ中盤。

キレとノビなら、豪徳寺のストレートにも劣らない。いや、制球力を含めれば上回っているかもしれない。


俺はずっと隠していた。

高校に入学した当初、俺は確かに平凡だった。

だが、一年の冬に身体の使い方のコツを掴んでから、俺の球は劇的に変わった。

それを監督やチームメイトに言わなかったのは、まだ完成度が高くなかったことと、豪徳寺という絶対的な存在がいる中で中途半端に実力を見せれば、潰される可能性があったからだ。

豪徳寺は、自分より目立つ奴を許さない。中学時代、有望な後輩をイジメ抜いて退部に追い込んだという噂も聞いていた。


だから俺は、爪を隠した。

虎視眈々と、確実にエースの座を奪えるその時が来るまで、「使えない補欠」を演じ続けてきた。


バシュッ!!


二球目。アウトローギリギリの直球。

完璧な軌道だ。

俺の実力は、もう隠しておく段階を超えている。

次の紅白戦、あるいは練習試合。そこで全てをさらけ出し、正正堂々とエースの座を奪い取るつもりだった。


そうすれば、美波も安心するはずだ。

俺が強くなれば、彼女が豪徳寺の顔色を伺う必要もなくなる。

堂々と彼女を守れる男になれる。


「……ふぅ」


十球ほど投げ込み、俺は汗を拭った。

心拍数が上がり、身体が熱い。だが、心の中の冷たいモヤモヤは晴れないままだ。


美波の、あの怯えた目。

豪徳寺の、粘着質な視線。

そして、今日の「残業」という名の居残り。


(考えすぎだ。美波に限って、そんなことはない)


俺は頭を振って、悪い想像を振り払おうとした。

彼女は俺のために怒ってくれる、優しい幼馴染だ。

ただ、豪徳寺が怖くて、マネージャーとしての責任感から無理をしているだけだ。

そう信じたかった。


スマートフォンの画面を見る。

時刻は20時を回っている。

美波からは何の連絡もない。

部活の残業にしては遅すぎる。

スコアブックの整理なんて、せいぜい一時間もあれば終わるはずだ。


胸騒ぎがする。

理性で抑え込もうとしても、本能が警鐘を鳴らしている。

『行け』と。

『確かめろ』と。


俺はグローブを鞄に押し込み、バッティングセンターを飛び出した。

夜の風が汗ばんだ肌を冷やすが、身体の芯は嫌な汗で冷え切っていた。

電車に飛び乗り、再び学校の最寄駅へと戻る。

人気のない通学路を走り、閉まりかけた校門をくぐる。


部室棟は暗かった。

だが、一番奥にある部室の窓から、微かな光が漏れているのが見えた。

まだ、誰かいる。


心臓の鼓動が早くなる。

全力疾走した直後だからではない。

これから見るかもしれない光景への恐怖が、足をすくませようとする。


(頼む、何もなくてくれ。ただ美波が一人で作業をしていて、俺が『遅いから迎えに来た』って笑い合うだけで終わってくれ)


祈るような気持ちで、俺は部室棟の廊下を音を立てずに歩いた。

静寂に包まれた校舎内は、自分の呼吸音さえも大きく聞こえる。

部室のドアに近づくにつれて、中から話し声が聞こえてきた。


「……だから、約束、守って……くださいね……」


美波の声だ。

泣いているような、震えた声。


「ああ、分かってるよ。お前の頑張り次第だけどな」


低い、嘲笑を含んだ男の声。

豪徳寺だ。

俺の足が止まる。

ドアの隙間から、部室の中の様子がわずかに見えた。


パイプ椅子にふんぞり返るように座る豪徳寺。

そして、その足元に跪く、見慣れたジャージ姿の少女。


俺の思考が真っ白に染まる。

そこで行われていたのは、俺が想像しうる最悪の、いや、それ以上に残酷な「取引」の現場だった。


「ほら、口動かせよ。相沢のためなんだろ?」


豪徳寺の言葉に、美波がビクリと肩を震わせる。

そして、彼女は何かを決意したように、ゆっくりと顔を埋めた。


俺は呼吸を忘れ、ただその光景を網膜に焼き付けていた。

信じていたものが、音を立てて崩れ去っていく音が聞こえた気がした。

これが、俺の愛した彼女の姿なのか。

俺を守るために、彼女はこんなことをしているというのか。


(ふざけるな……)


悲しみよりも先に、どす黒い怒りが湧き上がってくる。

それは豪徳寺に対する殺意であり、そして何より、俺をここまでコケにしてくれた美波への、裏切りに対する絶望的な怒りだった。


俺はポケットに入っていたスマートフォンを取り出し、震える指で録画ボタンを押した。

今すぐドアを蹴破って殴り込みたい衝動を、必死に抑え込む。

今ここで暴れても、揉み消されるだけだ。

豪徳寺は監督のお気に入りで、学校側もエースの不祥事は隠蔽したがるだろう。

確実な証拠が必要だ。

俺の存在を、俺の尊厳を、徹底的に踏みにじった奴らを地獄に叩き落とすための、絶対的な武器が。


レンズ越しに見る幼馴染の姿は、ひどく歪んで見えた。

「あなたのため」という独りよがりな自己犠牲に酔いしれる彼女の顔が、今はただ醜悪にしか見えなかった。


俺は凡才の仮面を被ったまま、心の中で修羅になることを誓った。

もう、誰も信じない。

信じるのは、自分の実力と、この記録された事実だけだ。


部室から漏れる湿った音を聞きながら、俺の瞳から光が消え、代わりに冷徹な鬼火が宿った。

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