最終話

世界は、まだ形を保っていた。

だがそれは、崩壊しないからではない。崩壊する理由が、互いに絡まり合って動けなくなっているだけだった。

空は落ちず、海は溢れず、大地は割れていない。

それでも誰もが感じていた。この世界は、もう「持ちこたえている」段階ではない、と。

王都の中央評議場では、今日も会議が開かれていた。

議題は同じだ。食糧流通の停滞、魔力循環の不全、地方防衛線の崩れ。

そして最後に必ず出る名前がある。

ユグ・ノアール。

だがその名が出るたび、空気は重くなる。

呼ぶことが禁忌になったわけではない。

呼んでも、答えが返ってこないことを、皆が知っているからだ。

彼は生きている。

世界最強であることも変わっていない。

ただ、家から出ない。

それだけで、世界は均衡を失った。

森の奥。

人の手で作られ、人の理を逸脱した一軒の家。

ユグ・ノアールは、窓辺に立っていた。

外を見ているわけではない。

見ようと思えば、世界のどこでも見える。

彼が見ているのは、反射した自分自身の姿だった。

「……まだ、壊れていない」

それは確認だった。

願いではない。

彼は知っている。

世界は、彼がいなくても回るように設計されていなかった。

それを作ったのは、彼自身だ。

かつて彼は、災厄を一人で止めた。

戦争を終わらせ、国家を救い、神の代理として裁きを下した。

誰もが感謝し、誰もが頼り、誰もが期待した。

そして世界は、彼を基準にした。

判断を委ね、決断を先送りし、失敗の責任を彼に預けた。

彼がいる限り、世界は滅びない。

その前提が、すべてを歪ませた。

「……だから、出ない」

ユグは静かに呟く。

これは罰ではない。

放棄でもない。

自分が動かないことで、世界が何を選ぶのか。

それを見るための、必要な距離だった。

だが、距離は時間とともに毒に変わる。

各地で小さな破綻が起き始めていた。

本来なら修復可能な問題が、判断の遅れで致命傷になる。

誰もが「最強が来るまで耐えよう」と考え、結果として誰も動かない。

ユグは、そのすべてを見ていた。

見て、耐えていた。

「……まだだ」

自分に言い聞かせるように、そう言う。

出れば救える。

だがそれは、世界が再び彼に縋る未来を選ぶことでもある。

選ばせなければならない。

間違えてもいいから、自分たちで。

その信念が、彼を椅子に縛りつけていた。

そのとき、家の内部で微かな振動が走った。

外部観測系の異常。

一都市が、完全に機能を停止した。

死者数、未確定。

復旧見込み、なし。

ユグは目を閉じた。

胸の奥で、何かが軋む。

「……一つ目、か」

それは数ではない。

許容回数でもない。

それでも、人間である以上、無傷ではいられなかった。

彼は世界を信じている。

だが同時に、世界の弱さも知っている。

このままでは、壊れる。

それは確信だった。

そして、ここから先は。

出ないという選択もまた、積極的な選択になる。

ユグ・ノアールは、初めて迷い始めていた。

世界が壊れるのを見届ける覚悟と、

世界を壊し続ける存在になる恐怖。

そのどちらを選んでも、彼は正しくない。

夜が来る。

空はまだ、落ちてこない。

だが世界は、確実に終わりへ向かっていた。

夜は、すべてを均等に覆う。

罪も、躊躇も、決断の遅れも。

闇は公平で、その点だけは救いに似ていた。

だが均等であるがゆえに、差は消えない。

光がなければ、深さだけが残る。

王都から遠く離れた天界観測塔。

かつて神託を降ろすために使われていたその場所では、今は沈黙が支配していた。

神々は語らない。

それは罰ではない。

彼ら自身が、介入をやめると決めた結果だった。

「……地上は、持ちません」

神の使徒は、淡々と報告した。

言葉に感情を乗せることは許されていない。

だが、声の揺れまでは制御できなかった。

「想定崩壊時期は、最短で三年。最長でも七年」

円卓の向こう側で、複数の神格が沈黙を保つ。

否定も肯定もない。

ただ事実を、受け取るだけだ。

「原因は」

「ユグ・ノアールの不在……ではありません」

使徒は、そこで一瞬だけ言葉を選んだ。

「正確には、世界が彼の不在を“想定していない”ことです」

それは、神々にとっても予想外の答えだった。

彼らは全知ではない。

だが世界の構造は把握している。

その構造が、一人の人間を前提に組み上がっていたことを、ここまで深刻には捉えていなかった。

「介入は」

「推奨されません」

使徒は、はっきりと言った。

「今ここで神が手を出せば、地上は完全に自立の機会を失います」

「では滅びろと?」

問いかけは冷たい。

使徒は、即答しなかった。

沈黙は、躊躇ではない。

「……滅びる可能性を含んだまま、選ばせるべきです」

その言葉は、天界の論理としては異端だった。

安全な未来より、不確かな選択を優先する。

円卓の神々は、視線を交わすこともなく、結論を出す。

「介入しない」

それだけだった。

使徒は、深く一礼した。

それが正しいかどうかは、彼にもわからない。

だが、地上に一人だけ、同じ問いを抱え続けている人間がいることを、彼は知っていた。

森の奥の家。

ユグ・ノアールは、机に向かっていた。

世界から切り離された空間。

だが、孤立ではない。

情報はすべて入ってくる。

だからこそ、逃げ場がない。

都市の崩壊。

地方の暴動。

指導者の失踪。

英雄の不在。

そして必ず最後に、同じ声が重なる。

「ユグは、なぜ動かない」

彼は、その声を拒絶しない。

否定もしない。

事実だからだ。

「……動けば終わる」

誰に聞かせるでもなく、呟く。

一度動けば、世界は学ばない。

一度救えば、次も求められる。

それが善意であっても、結果は同じだ。

彼は最強だ。

だが万能ではない。

無限に続く責任を、引き受け続けることはできない。

それでも。

「……それでも、か」

机の上に置かれた報告書。

数字だけが並ぶ紙の束。

死者数。

避難失敗率。

回復不能地域。

数字は、感情を持たない。

だが、それを見る人間は違う。

ユグは、紙を伏せた。

選ばなければならない。

もう、「何もしない」という選択は、中立ではない。

世界を壊すか。

世界を縛るか。

その二択に見えている限り、答えは出ない。

彼は、家の奥へ向かう。

普段は立ち入らない場所。

床に刻まれた、古い術式。

これは戦闘用ではない。

防衛用でもない。

「……補助」

それは、かつて一度だけ考えた案だった。

そして、危険すぎるとして封じた選択。

世界を救わず、世界を放置もしない。

選択の“余地”だけを残す。

だがそれは、失敗すればすべてを無意味にする。

中途半端な介入は、最悪の結果を生む。

「……それでも」

彼は、膝をついた。

苦しい。

迷いではない。

覚悟が、足りないだけだ。

この選択は、英雄にはできない。

神にもできない。

責任を分散し、結果を保証せず、

それでも希望を捨てない。

それは、人間にしか選べないやり方だ。

ユグ・ノアールは、世界最強である前に、人間だった。

そして今、

最も人間らしい選択を迫られていた。

外では、また一つ、火が消えた。

世界は、待ってくれない。

世界が動き出したのは、奇跡が起きたからではない。

奇跡が起きなかったからだ。

英雄は現れず、神託は降りず、圧倒的な力で事態を一変させる存在も現れなかった。

ただ、ある瞬間から「待つ」という選択が、機能しなくなった。

誰も来ない。

誰も救わない。

その事実が、遅れて、しかし確実に世界へ浸透していった。

王都では、評議会が瓦解した。

決断を先送りにし続けた結果、発言権そのものが意味を失ったからだ。

代わりに前へ出たのは、名も知られていない官僚や技師、補給担当者たちだった。

彼らは英雄ではない。

失敗を恐れ、責任を嫌い、完璧な判断など一度も下したことがない人間たちだ。

それでも彼らは、決めた。

食糧配分を再編する。

地方都市の放棄を選ぶ。

救えない地域を、救えないと認める。

選択は残酷だった。

だが、誰かが背負わなければ、全員が沈む。

その頃、森の奥の家では、静かな変化が起きていた。

ユグ・ノアールは、術式の中心に立っている。

だが、力を放ってはいない。

彼が行っているのは、補助だ。

直接的な介入ではない。

世界に流れる情報の歪みを正す。

過剰に集中していた魔力の流れを分散させる。

特定の地域にだけ重なっていた負荷を、均等にばらす。

それは、世界の「操作」ではない。

世界が誤認していた前提を、そっと外す行為だった。

結果として、人々は気づかない。

自分たちが救われたとは思わない。

ただ、「なぜか判断が間に合った」「最悪は避けられた」と感じるだけだ。

それでいい。

ユグは、意識的に距離を保つ。

声を届けない。

夢にも出ない。

彼の存在が意識された瞬間、すべてが元に戻る。

補助は、気づかれてはならない。

天界でも、変化は観測されていた。

神の使徒は、報告書を手に沈黙している。

世界は、まだ危うい。

だが、完全な崩壊線からは、わずかに外れ始めていた。

「……自立、していますか」

誰に向けたとも知れない言葉。

神々は答えない。

だが、介入を再開する気配もない。

地上では、失敗が続いている。

判断ミスによる死。

連携不足による壊滅。

だが、それらは「世界の責任」として記録されている。

最強の不在は、もはや言い訳にならない。

その変化を、ユグは感じていた。

重みが、違う。

かつては、世界のすべてが彼に向かって傾いていた。

今は、彼を避けて流れている。

それが、少しだけ寂しい。

そして、少しだけ救われる。

「……行け」

誰に命じるでもなく、そう呟く。

術式は、淡く光るだけだ。

力は、使っていない。

世界が自分で進むための、摩擦を減らしているだけだ。

人々は転ぶ。

立ち上がる。

また転ぶ。

その繰り返しの中で、誰もが知り始める。

待っても、何も来ない。

だから、自分で決めるしかない。

それは、苦しく、重く、逃げ場のない現実だ。

だが同時に、初めて「自分たちの世界」になり始めていた。

ユグ・ノアールは、椅子に座る。

世界を見ている。

だが、触れない。

その距離が、ようやく正しくなり始めていた。

世界は、まだ形を保っていた。

それは数年前と同じ言葉で表せる状況だったが、意味はまったく違っていた。

かつてそれは、崩壊理由が絡まり合って動けなくなっているだけの静止だった。

今は、崩れながらも、前へ進んでいる状態だった。

王都は縮小された。

失われた都市は戻らない。

犠牲になった命も、記録に残るだけで蘇らない。

それでも、会議は続いている。

評議場の席は減り、声は荒く、結論は遅い。

だが一つだけ、決定的に違う点があった。

誰も、ユグ・ノアールの名を出さなくなった。

忘れられたわけではない。

否定されたわけでもない。

「呼ばない」という選択が、共有されていた。

世界は、もう知っている。

彼がいない前提で、判断を積み重ねるしかないことを。

地方では、小さな連携が生まれていた。

かつて国家が担っていた役割を、複数の都市が分け合う。

完璧ではない。

だが、一度失敗した方法を繰り返さないだけの学習が、そこにはあった。

天界では、神の使徒が報告書を閉じる。

数値は依然として危険域にある。

だが、崩壊予測線は確実に後退していた。

「……自立、未完」

それが、正式な評価だった。

完全ではない。

いつ壊れてもおかしくない。

だが、自分で立とうとしている。

神々は、それ以上の言葉を与えなかった。

介入もしない。

世界が、世界として呼吸している限り、

それ以上をする理由がなかった。

森の奥。

一軒の家。

ユグ・ノアールは、窓辺に立っていた。

外を見ているわけではない。

見ようと思えば、世界のどこでも見える。

彼が見ているのは、反射した自分自身の姿だった。

かつてと同じ立ち位置。

同じ沈黙。

だが、胸の内は違う。

彼は、世界を救っていない。

英雄にもなっていない。

神の代行者にも戻っていない。

それでも、世界は続いている。

完璧ではない形で。

不安定な足取りで。

誰かに縋らない状態で。

それが、彼の選んだ結果だった。

「……これでいい」

そう言葉にした瞬間、

彼の中で、長く続いていた緊張が、ようやくほどけた。

世界は、彼を必要としなくなったわけではない。

だが、彼を前提にしなくなった。

その違いは、決定的だった。

ユグは、椅子に座る。

本を開く。

ページをめくる。

外では、誰かが失敗し、誰かが決断し、

誰かがその責任を引き受けている。

彼は、見ている。

だが、出ない。

それは逃避ではない。

拒絶でもない。

世界が、自分の足で立とうとするのを、

邪魔しないための距離だった。

世界は、まだ形を保っていた。

今度は、崩れないからではない。

壊れながらも、進む力を得たからだ。

そしてユグ・ノアールは、

世界最強であり続けながら、

今日も家から出ない。

それでいいと、

ようやく、心から思えた。

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