第8話
世界が軋む音は、ここまで届かない。
だが、わからないわけじゃない。
家の中は静かだ。
暖炉の火は一定の高さで揺れ、湯は沸きすぎず、冷めもしない。
本のページは、めくれば必ず同じ重さで指にかかる。
完璧だ。
だからこそ、外がどれほど歪んでいるかが、よくわかる。
「……持たなかったか」
ユグ・ノアールは、窓の外を見ずにそう呟いた。
見なくても、世界の状態はわかる。
悲鳴も、混乱も、恐怖も、情報として流れ込んでくる。
だが彼は、それを遮断している。
聞こうとすれば、聞こえる。
介入しようと思えば、一瞬で終わる。
それでも、しない。
「まだだ」
誰に言うでもなく、そう言った。
世界は数年前から、ずっと「誰か」を待っている。
神でも、英雄でも、魔王でもない。
自分だ。
それが気に入らなかった。
かつて、彼は外にいた。
剣を振るい、魔法を使い、問題を消し続けた。
消せば消すほど、世界は軽くなった。
同時に、弱くなった。
決断をしなくなる。
痛みを避ける。
考える前に、期待する。
それに気づいたのは、遅かった。
「俺がやるべきじゃなかった」
それが、彼が家を作った理由だ。
逃げではない。
反省だ。
ユグは椅子に深く座り直す。
膝の上には、開いたままの本。
だが、文字は頭に入ってこない。
外では、どこかの国が崩れかけている。
別の場所では、誰かが「もう無理だ」と口にした。
それを、彼は知っている。
「……それでも」
助けない。
助ければ、世界はまた同じ場所に戻る。
「最強がいればいい」という、甘い地点へ。
それだけは、許せなかった。
家は、何も言わない。
警告もしない。
促しもしない。
正しい。
これは、機構だ。
感情を挟む余地はない。
「壊れるなら、それまでだ」
冷たい言葉だと、自分でも思う。
だが、嘘ではない。
世界が壊れるということは、
それがその世界の限界だったというだけだ。
ユグは、世界を信じている。
だからこそ、手を出さない。
「……選べ」
誰に向けた言葉かは、自分でもわからない。
人か。
国か。
世界か。
あるいは、自分自身か。
外の空が、さらに暗くなる。
境界が揺れ、因果が悲鳴を上げる。
それでも、ユグは立たない。
「今ここで俺が出たら」
小さく、独り言。
「それは、世界を救う行為じゃない」
「ただの、延命だ」
彼は知っている。
延命は、希望を腐らせる。
本を閉じ、紅茶を一口飲む。
味は、いつもと同じ。
「……まだ、待てる」
それが正しいかどうかは、わからない。
だが、彼が選んだ道だ。
世界最強は、動かない。
動かないことでしか、
守れないものがあると知っているからだ。
そして世界は今、
本当の意味で、誰にも頼れない場所に立っている。
この先、何が起きても。
ユグ・ノアールは、
その選択を、ただ見届けるつもりだった。
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