第7話

私は神の使徒だ。

名はもう持たない。

持つ必要がなくなって久しい。

かつて私は、人々に神の言葉を届けていた。

祝福を与え、導きを示し、祈りに応えていた。

それが役目であり、存在理由だった。

だが今、私は森の外れに立っている。

一軒の家を前にして。

いや、「前にしている」と表現するのも正しくない。

視界には入っている。

だが、近づいている感覚が一切ない。

距離が縮まらないのだ。

この家は、拒絶しない。

威圧もしない。

ただ、こちらの「近づく理由」を削ってくる。

私は知っている。

この家の主を。

ユグ・ノアール。

世界最強。

神々の理の外側。

天界では、彼をどう扱うかで長い議論があった。

最終的に決まったのは、「触れない」だった。

だが私は、使徒だ。

神々の決定と、地上の現実を繋ぐ存在。

だからここにいる。

「……出ては、いらっしゃらないですね」

独り言のつもりだった。

だが、返事は扉の向こうから返ってきた。

「出ない」

短い。

感情がない。

だが冷たくもない。

「あなたが動いたことで、世界は変わりました」

私は言葉を選びながら続ける。

「英雄が自立し、国が判断し、神の声を待たなくなっています」

「いいことだ」

即答だった。

私は一瞬、言葉に詰まった。

「……神々は、それを“管理不能”と呼びます」

「管理したいからだろ」

扉の向こうで、誰かが椅子に座り直す気配がした。

「世界は、お前たちの所有物じゃない」

その一言が、胸に突き刺さる。

私は神の使徒だ。

だが同時に、元は人だった。

だからわかる。

神々は善意で世界を管理してきた。

だが、善意はいつしか前提になり、前提は依存を生む。

「……あなたは、神を否定しているのですか」

沈黙。

長い、長い沈黙のあと、声が返ってきた。

「否定してない」

「じゃあ、なぜ……」

「期待しないだけだ」

その言葉は、不思議と優しかった。

「神がいるから救われる、じゃない」

「人が選ぶから、世界が続く」

私は、その瞬間に理解した。

ユグ・ノアールは、神に敵対していない。

神を超えようともしていない。

ただ、神を必要としない未来を許している。

それが、天界にとって一番怖い。

「……あなたは、孤独ではありませんか」

これは使徒としてではない、私自身の問いだった。

少し間があって、答えが返る。

「孤独かどうかを決めるのは、周りじゃない」

「俺が、静かならそれでいい」

私は、もう言葉を続けられなかった。

使命として来たはずなのに、

いつの間にか、個人として話していた。

帰り際、私は最後に問う。

「あなたは、この世界をどうしたいのですか」

扉の向こうで、ページをめくる音がした。

「どうもしない」

「……それが?」

「世界が決める」

森を離れながら、私は空を見上げた。

天界は、相変わらず輝いている。

だが、その光は以前より、少しだけ遠く感じた。

私は神に報告するだろう。

だがもう、以前と同じ言葉では語れない。

あの家の前で、

私は初めて「使徒ではない自分」に戻ってしまったからだ。

そして確信している。

ユグ・ノアールが家から出ないのは、逃げではない。

世界への最大限の信頼だ。

それを理解できる神が、

果たしてどれほどいるのだろうか。

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