第3話
ユグ・ノアールが家に戻ってから三日が経った。
その三日間、世界は奇妙なほど静かだった。
戦争は起きない。
魔王軍は動かない。
英雄候補たちは、なぜか剣を握る気力を失い、各地で「様子見」という名の停滞に入っていた。
理由は単純だ。
誰もが知ってしまったのだ。
世界最強は、まだ存在している。
しかも、気まぐれに外へ出る。
それは抑止力として、あまりにも強すぎた。
家の中、ユグはいつも通りの生活に戻っていた。
朝は紅茶。
昼は簡素な食事。
夜は本。
だが、わずかな違和感があった。
静かすぎる。
以前の静寂は、彼が世界を押さえつけて生まれたものだった。
今の静寂は、世界が彼を“恐れて黙っている”音だった。
「……面倒な学習をしたな」
ユグは本を閉じ、天井を見上げる。
その瞬間、家の奥、普段は反応しない領域がかすかに振動した。
「?」
ユグは立ち上がり、地下へ続く扉の前に立つ。
ここは彼自身が封印した場所だ。
世界のどこにも繋がっていない。
彼の過去と直結している空間。
扉は、内側からノックされた。
コン、コン。
音としては控えめだが、内容は異常だった。
ここをノックできる存在は、原則として存在しない。
「……誰だ」
返事はない。
だが、家そのものが微かに軋んだ。
ユグは理解した。
「……お前か」
扉を開ける。
そこにあったのは、人ではなかった。
光でも影でもない。
概念の集合体。
この家そのものの意思。
形を持たないそれは、直接思考に語りかけてくる。
《外に出たな》
「ああ」
《世界が騒がしくなった》
「知ってる」
ユグは壁にもたれかかる。
「だから、しばらく出ない」
《それでは遅い》
ユグの眉が、ほんの少し動いた。
「どういう意味だ」
《世界は、お前が“戻る場所”を持っていることを理解した》
《それは希望であり、同時に依存だ》
ユグは黙る。
《このままでは、世界はお前が家にいることを前提に再構築される》
「……それの何が問題だ」
《お前が消えたとき、世界は即座に壊れる》
ユグは視線を落とした。
「消える予定はない」
《予定ではない。可能性の話だ》
家の意思は続ける。
《お前は世界最強だが、不変ではない》
《それを世界が忘れ始めている》
ユグは、しばらく何も言わなかった。
彼が最も嫌うのは、責任だ。
だが同時に、彼は“壊れる未来”を放置できるほど無関心でもなかった。
「……だから、どうしろと」
《世界に「お前なしでも回る時間」を与えろ》
「俺が?」
《そうだ》
ユグは小さく笑った。
「それが一番面倒だ」
《だが、それが最も穏やかな方法だ》
沈黙。
やがてユグは、深く息を吐いた。
「……短時間だ」
《十分だ》
その夜、世界に小さな異変が起きた。
ユグ・ノアールの家から、存在感が消えた。
消滅ではない。
移動でもない。
ただ、「そこにある」という前提だけが、一時的に解除された。
結界は残っている。
家もある。
だが、世界からの認識が薄れた。
神々は混乱した。
観測できない。
測定できない。
魔王は震え、英雄たちは焦り、賢者たちは計算を狂わせる。
そして世界は、初めてこう考えた。
もし、あの男が本当に動かなかったら?
もし、二度と外に出なかったら?
その問いに答えられる存在は、もういなかった。
家の中、ユグはいつも通り椅子に座り、紅茶を飲んでいた。
「……少しは学べよ、世界」
家の意思は、静かに応える。
《学ばせるために、お前はここにいる》
ユグは目を閉じた。
外では、世界が必死に「自立」という概念を思い出そうとしていた。
そして誰も知らない。
その静かな家の中に、
世界そのものより古い決断が眠っていることを。
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