第4話
世界から「ユグ・ノアールの家」が薄れ始めて七日目。
異変は、静かに、しかし確実に広がっていた。
まず崩れたのは予言だった。
未来を見通すはずの神託が、ことごとく空白を返す。
「最悪の事態は回避される」という一文だけが、意味を失った文字列として残った。
次に壊れたのは計算。
賢者たちが組み上げた因果律の数式から、必ず一つの変数が抜け落ちる。
補完しようとすればするほど、答えは破綻する。
そして最後に、信仰が揺れた。
人々は神に祈ってきた。
だが無意識の底では、もっと確かなものを信じていた。
「最悪でも、あの男がいる」
その前提が、世界から消えかけている。
魔王城では、七代目魔王が玉座に座ったまま動けずにいた。
彼は戦う意思を失っていたわけではない。
むしろ逆だ。
「……いない、のか?」
側近が恐る恐る答える。
「観測不能です。存在は……確認できません」
魔王は歯を噛みしめた。
「いるなら抑止になる。いないなら……」
言葉を続けられなかった。
彼は知っている。
ユグ・ノアールが恐ろしいのは、その力ではない。
本気を出す必要がないこと。
それこそが、魔王にとって最大の絶望だった。
一方、家の中。
ユグはいつもより少しだけ眠りが浅かった。
夢を見る。
珍しいことだ。
夢の中で、彼はまだ若かった。
家もなく、世界を歩いていた頃。
剣を振るい、魔法を使い、敵を倒し続けていた。
理由はあった。
守るものが、あった。
だが、夢はそこで歪む。
救ったはずの国が、彼を利用し始める。
助けた人々が、彼に依存する。
敵がいなくなるほど、世界が彼を必要とする。
そして誰かが言う。
「あなたがいないと、世界は回らない」
その言葉で、ユグは目を覚ました。
「……それが嫌だったんだ」
ぽつりと呟く。
家の意思が、応える。
《だから、お前は家を作った》
「違う」
ユグはゆっくり起き上がる。
「家を作ったのは、逃げるためじゃない」
暖炉の火が、静かに揺れた。
「俺が“いなくてもいい世界”を作るためだ」
《だが、世界はお前を基準にしてしまった》
「だから、壊す」
家の意思が一瞬、沈黙した。
《……壊す?》
「依存をだ」
ユグは窓の外を見る。
見えないはずの世界の気配を、確かに感じていた。
「世界が俺を必要としないなら、俺は出なくていい」
《逆だ》
家の意思は、低く告げる。
《世界が“自分で立てる”ようになるまで、お前は出てはならない》
ユグは少し笑った。
「やっぱり、家にいるのが正解か」
その瞬間、世界のどこかで、大きな破綻が起きた。
封印されていた古代災厄が、目を覚ましたのだ。
かつてユグが一人で沈めた存在。
世界は彼がいない状態で、それに対処しなければならない。
神々は介入できない。
英雄は足りない。
だが、今回は違う。
人々は逃げなかった。
誰かを呼ぼうともしなかった。
「自分たちで、やるしかない」
その選択が、世界に初めて生まれた。
家の中、ユグはその光景を見ていた。
直接ではない。
干渉もしていない。
ただ、観測している。
「……やればできるじゃないか」
家の意思が、静かに答える。
《これが、お前が守りたかったものだ》
ユグは椅子に座り、目を閉じた。
外では、世界が必死に、しかし確かに、立ち上がり始めていた。
そして誰も知らない。
この家の中にいる男が、
世界を見捨てたのではなく、信じたということを。
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