第2話

ユグ・ノアールが一歩外に出た瞬間、世界は音を思い出した。

風が木々を揺らし、土が重さを取り戻し、遠くで魔物の咆哮が遅れて響く。

それらはすべて、「今まで抑えられていたもの」が堰を切っただけだった。

「……うるさい」

ユグはそう呟き、指先で空をなぞった。

それだけで周囲数キロの魔力密度が均一化され、暴走しかけていた自然現象が静まる。

本人にとっては、散らかった部屋を軽く片付ける程度の感覚だ。

神の使徒は、数歩後ろで立ち尽くしていた。

膝が笑っているのを必死に誤魔化しながら。

「本当に……外に出られたのですね」

「出ただけだ。まだ帰ってない」

ユグは森の外、遠くの山脈を見た。

そこには黒い雲が渦巻いている。

魔王城の方角だ。

「魔王、また代替わりしたか」

「はい。七代目です」

「短命だな」

その言葉には、嘲りも同情もなかった。

事実を述べただけ。

ユグは歩き出す。

道はないが、世界の方が彼に合わせて地形を調整する。

草は踏まれる前に身を伏せ、岩は彼の進行を邪魔しない位置へとわずかにずれる。

神の使徒は、必死についていく。

「なぜ……あなたが動かないと、世界が不安定になるのか、ご存じですか」

「知らない。興味も薄い」

「……それでも、お伝えしなければなりません」

ユグは止まらない。

「世界は、あなたを“基準”にしてしまったのです」

その言葉で、ユグの足が止まった。

「基準?」

「はい。強さの上限。理の安全装置。暴走した存在が必ず届かない“天井”」

神の使徒の声は震えていた。

「あなたが家にいるだけで、世界は『あれ以上は無理だ』と理解する。だから均衡が保たれていた」

ユグは少し考え、ため息をつく。

「つまり俺は、置物か」

「……申し訳ありません」

「謝るくらいなら、最初からそんな設計にするな」

再び歩き出す。

魔王城が近づくにつれ、空気が重くなる。

普通の人間なら呼吸すら困難だが、ユグは特に気にしない。

城門の前には、魔王が立っていた。

若い。

恐怖と覚悟が混ざった目をしている。

「……ユグ・ノアール」

声が震える。

「俺を知ってるなら話は早い」

ユグは数メートル手前で止まった。

「戦う気はない。帰りたい」

魔王は一瞬、理解できない顔をしたあと、苦笑した。

「……あなたが動いた時点で、戦いは終わっているようなものです」

「それなら尚更だ」

ユグは魔王を見る。

「城を解体しろ。軍を解散しろ。魔物を減らせ」

魔王は黙って聞いている。

「拒否するなら、俺が“調整”する」

その言葉に、空が軋んだ。

魔王は膝をついた。

「従います」

即答だった。

世界のどこかで、戦争が未然に終わった。

英雄が生まれる予定だった物語が、静かに消えた。

ユグは背を向ける。

「用は済んだ」

「……それだけですか?」

神の使徒が恐る恐る尋ねる。

「それ以上やると、また期待される」

歩き出したユグの背中は、少しだけ疲れて見えた。

家が見えてきたとき、世界のノイズが少しずつ減っていく。

まるで、彼が帰るのを待っていたかのように。

玄関の前で、ユグは立ち止まった。

「……やっぱり、外は性に合わない」

扉に手をかける。

その瞬間、家が微かに軋んだ。

歓迎の音だ。

ユグは中に入り、扉を閉める。

世界は、また静かになった。

だが今回は違う。

世界は知ってしまった。

世界最強は、必要なときだけ動くということを。

ユグ・ノアールは椅子に座り、紅茶を淹れ直した。

少し冷めた香りが、部屋に広がる。

「……次は、しばらく来るなよ」

そう言って、彼は本を開いた。

外では、世界が必死に均衡を学び直していた。

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