世界最強なのに家から出ない男
カロリー爆弾
第1話
森は今日も静かだった。
風が吹いているはずなのに、葉は揺れない。
鳥の鳴き声すらも聞こえない。
魔物が棲むはずの森なのに、殺気すら存在しない。
すべては一軒の家を中心に、世界が無意識に遠慮しているからだった。
その家の中、暖炉の前でユグ・ノアールは椅子に沈み込んでいた。
黒い髪は無造作に肩まで伸び、表情は相変わらず感情が薄い。
だが、その瞳の奥には、世界そのものを見通してきた者だけが持つ静かな深さがあった。
「……今日は平和だな」
そう呟いた瞬間、彼の家の外縁に張り巡らされた結界が、ほんのわずかに震えた。
ユグはため息をつく。
「来たか」
彼が立ち上がる必要はない。
指を動かす必要すらない。
ただ、世界の情報が勝手に流れ込んでくる。
侵入者、三名。
魔王軍第三軍団所属。
階級は上位。
目的は確認と排除。
ユグは紅茶を置き、椅子に深く座り直した。
外では、三体の影が森を進んでいた。
巨大な鎧をまとった魔人。
宙に浮く高位魔導士。
人型だが、影が異常に歪んだ暗殺者。
彼らは歴戦の存在だった。
数々の国を滅ぼし、英雄を殺し、神官を絶望させてきた。
だが、この森に足を踏み入れた瞬間から、違和感が始まっていた。
進んでいるはずなのに、景色が変わらない。
魔力探知は沈黙し、方位感覚が溶ける。
心拍が妙に落ち着きすぎている。
「……おかしい」
魔導士が呟いた瞬間、結界が反応した。
世界が反転する。
彼らは気づけば、森の外に立っていた。
時間にして、侵入から三秒も経っていない。
「……撤退だ」
誰も異議を唱えなかった。
家の中、ユグはその結果を当然のように受け取る。
「郵便物は?」
誰に向けたわけでもない言葉に、空間が歪み、郵便受けの中身が彼の手元に転送される。
一通。
紙質は普通。
だが、封蝋だけが異様だった。
神級封印。
ユグは眉をひそめる。
「まだこの手の連中がいるのか」
封印を外すのに、魔力は要らない。
彼が触れた瞬間、封印の方が諦める。
中身は短い。
「世界の均衡が崩れ始めています。あなたの不在が原因です」
ユグは読み終えたあと、紙を折り、暖炉に放り込んだ🔥
「均衡なんて、元から脆いだろ」
炎は紙を燃やしきれず、途中で消えた。
神級の紙は、暖炉程度では燃えない。
ユグは少しだけ不機嫌になる。
「……処理が面倒」
彼が指を鳴らすと、紙は存在そのものを失った。
その瞬間、遠くの空で雷が鳴った。
神々のどこかが、軽く悲鳴を上げた気配。
ユグは気にしない。
彼の日常は、世界の非常事態と無関係に進む。
昼食はスープ。
素材は森に自生する薬草だが、普通の人間が触れれば即死する濃度の魔力を含んでいる。
ユグにとっては、少し苦いだけ。
食後は読書。
内容は古代魔導理論。
書かれている内容の半分は彼が昔考えたものだ。
そのとき、家全体がわずかに軋んだ。
今度は本物の異変だった。
ユグはゆっくりと立ち上がる。
「……来たか」
結界の外。
今度は一人。
だが、質が違う。
世界そのものが、彼の存在を避けきれていない。
白い法衣。
顔は見えない。
だが、神格反応がはっきりと存在している。
神の使徒。
「ユグ・ノアール」
声が、直接脳内に響く。
「お願いがあります」
ユグは玄関に近づくことすらせず、扉越しに答える。
「却下」
即答だった。
「まだ何も言っていません」
「言わなくていい」
沈黙。
神の使徒は、少し困ったように言葉を選ぶ。
「世界が壊れかけています」
「それはよくある」
「魔王が動いています」
「いつも動いてる」
「神々が介入できません」
「それはそっちの都合」
再び沈黙。
やがて、使徒は言った。
「あなたの家が、世界の中心になってしまいました」
ユグは初めて、動きを止めた。
「……何?」
「あなたが動かないことで、世界は安定していました。しかし今、その安定が限界を迎えています」
ユグはしばらく考えた。
考えるという行為自体が、彼にとっては久しぶりだった。
「要するに」
「はい」
「俺が出ないと、面倒が起きる?」
「……はい」
ユグは深く息を吐いた。
「最悪だ」
扉の向こうで、神の使徒が安堵する気配がした。
だが、次の言葉で凍りつく。
「勘違いするな」
ユグの声は静かだが、確実に世界を圧していた。
「俺は世界を救いに行かない」
「え……?」
「ただ」
彼は玄関に手をかける。
「俺の家の平穏を守るために、外を少し片付けるだけだ」
扉が、何百年ぶりかに開いた。
その瞬間、世界が揺れた。
森が息を吹き返し、風が走り、空が色を取り戻す。
ユグ・ノアールが、家の外に出た。
世界最強は、相変わらず不機嫌そうだった。
「……すぐ戻る」
そう言って、彼は一歩、外へ踏み出した。
世界は、それだけで戦慄した。
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