13
気まずくて、頭をがりがりと掻くと軽快な操作音の後に真幸の耳に音楽が流れた。真幸は聞き流していたが、この音色はやたら野太い。そして、音の強弱の差が激しい。上手いのか下手なのか。演歌っぽかった。サビのような箇所にあたると、フレーズが勝手に思い浮かぶ。
誰かが「津軽海峡かよ!」と吹き出した。
「え、何? これ? ……笛?」
「……あの、尺八です」
真幸は振り向かなかったが、男性が恥ずかしがっておそるおそると呟いているのはわかった。どっと、驚きの声が湧く。
「自演自作!?」
「そこは、自作自演だろう」と真幸は思ったが、もともと津軽海峡は名曲だ。さすがにその男性が作ったものではないだろう。自作ではない。それなら自演自作は合っているのかもしれなかった。
「すげェ!」
喝采が降って場の空気が変わった。が、まだまだ場の中心は、依然真幸と課長だ。肌で、嫌なほど感じる。あの女の本性は、さっき改めてわかった。逃げ場はないかもしれない。
そうは思いたくなかった。でもそうなるだろうと思った。なぜなら時々、危ういことがあったから。ある時期を境に。どうしてこうなったのか、まるでわからない。誰も答えを教えてくれない。直接聞いても、はぐらかされる。それに聞いたら人生の最期だろう。
自分の存在が忌まわしかった。どこにいても自分は害悪だと思い知らされる。
どこに行っても変わらないと繰り返した。
死屍累々の学生時代を卒業しても。
新卒で働いた所は、国の下だった。つまりお役所。それでも倒れるまで働かされ、たちまち一年で、心身を病んだ。
次の転職先は中小企業にした。そこなら残業はないと思った。いつの間にか、働かされている。過剰な程。
ここも所詮同じだったか、と失望にかられた。
突然、メールが届いた。
祖母からのメールは昨晩から無視していたが、妙な予感がして開く。
大節だ。
『返事が遅くなり、すみません。近頃、立て込んでいまして。もうしばらく待っていただけませんか』
「大丈夫です」と真幸はすぐに送信した。こちらは当分、暇になる。
その後で、改めて祖母からのメールを開いた。取るに足らない一日の報告だった。心配しているのが伝わる。その気遣いは苦しかったが、有難かった。
自分が死んだら、祖母は必ず悲しむ。祖母が生きている間は、何としてでも死ねない。
ふと「大節は、自分が死んだら悲しむだろうか?」と思った。ごく自然に思い浮かべた。自分でも不思議だった。悲しませたくない。
会社のパソコンに向き合っていたが、ネットを立ち上げて検索欄に「退職届」と入力した。
書き方の記事を見つけ、その記事の一部をコピーをした。文章ソフトを開いて、ペーストした。フォントを整えた。体裁を、コピーしたものだとバレないようにした。
そして、自分なりの退職理由を打ち込む。
退職届を入れる封筒があったか。あったと思う。そのまま、むき出しでもいいだろうが、折角だ。立ち上がって文具棚に行った。長形3号の茶封筒を使う。この際、これでいいだろう。たかが社員が一人辞めるだけだ。
印刷した紙を、きちっと三つ折りにし、封をした。その封筒の郵便番号の上に線を引いてから真ん中に「退職届」と書き記した。
それを持って課長より職位が上のデスクに向かった。怯える部長の表情に、真幸は作り笑いを大げさに作った。一応部長は、真幸のいる部署全体を統べる立場の人間である。
精一杯この社の理念に添えるように働いたつもりだった。しかし、労いはなかった。だから、あの日、福岡にある本社のトップは俺を見たのだと悟った。どっちが会社にとって役に立つのか、かもしれない。が、それを背負うことは辞退したかった。
真幸は、退職届をそっと部長のデスクに置いた。
「すみません。退職させて頂きます。今まで、お世話になりました」
礼儀として真幸は、うやうやしく頭を下げた。
「……ッ突然、何を言うんだ!?」
頭を上げた時、醜い中年の男の焦りが姿を現した。
「なぜでしょうか?」
一層、怯む部長から不思議な言い訳を突きつけられる。
「きみは、まだ若輩者だからわからんかもしれないが、辞めてどうするんだ!?」
「辞めたら、お前の未来は無い」と、「辞められたら、自分が困る」といった二つの葛藤が見て取れた。
心が冷えた。自分の都合しか考えてない。
課長も立ち上がって成り行きを見ている。脇目で見て、わかった。この人は、部長の下に付き従う、課長である。
上がそうなら、その下も、そうかと納得いった。自分もそうなのだと思う。だが、これ以上、巻き添えはごめんだ。
「すみません。一つ嘘をつきました」
わざわざ、部長ではなく、課長に向かって、声を発した。届くか、どうか。でも、俺は知っていた。どちらが、ずっとより働いていたか、知っていた。だから助力を惜しまなかったんだ。でも、途中からの真幸に対する対応には一切、賛同できなかった。もう、この人を信じることができなかったのが悲しかった。
「お父さん」と呼びかけた。見上げたら、小学生の頃と変わりなく、穏やかな父の姿がいた。池の前のベンチで少し困ったような表情をしている。それでも緩やかに笑っていた。
真幸は深く息を吐いた。
「自分には父もいました。しかし、父は、アルコール依存症でした。その父から、生まれた自分はろくでもなしです」
頭を再び深々と下げた。この人にはとてもお世話になった。どうあれ、自信喪失して、右も左も失っていた俺に一から、親身に仕事のやり方を叩き込んでくれたのは課長だけだった。だから、真幸は成長できた。
「自分も父と同じ末路を辿るでしょう。そんな人間が、子供に教えられる訳がありませんね。もう、お力になれません。申し訳ありません」
声はもう返って来なかった。
真幸は自分のデスクに戻り、私物をまとめた。やがて社員証をパソコンの上に置いた。
すっきりした。
「ああ、そうだ」と思って、妙に親切な気持ちで、引継ぎをどうするかと考えた。しかし、既に、全体内、進行のタスクの割り当ては社内で共有している。
もう、すべきことはない。さすがにくたびれた。もう二度とやりたくない。
自分の発言を振り返ると「大節、お前だったら最後にどうする?」とそこにはいないのに尋ねた。当然、大節から返ってくることはない。あいつのことを何も知らないなと思った。
真幸は、深々と頭を下げた。
「ーーご迷惑をお掛けしました」
周りをよそに、真幸は取手を引いて、ノブを回すと出て行った。
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