12

 翌日は何とかなった。辛いが、何とかするしかなかった。悪意か、敵意か、それとも嫉妬か。もうどちらでもいい。疑うのは疲れた。ない混ぜの人の感情が真幸を標的にしてぶつけにかかる。だが気のせいと言えば、気のせいと言える。気のせいと言うには痛いし、真幸に向かう会社の人達の気持ちが怖い。


 ただ真幸は働いているだけだ。生活のために。それは皆、同じではないのか。


 もし真幸の働きを狡いと思っているなら、と真幸は周りからの苛立ちを感じている。なのに自分の気持ちは置いてきぼりにされているような気がする。誰も慮ってくれない。


 才能があるとかで妬まれているのか? と仮説を立てた。才能なんてあるわけがない。真幸は、ずっと必死なだけだった。


 死にそうな思いを実際に何度もしている。それでも羨ましいのか?


 ふっと、真幸はどうでもよくなったが、このまま過労による身体トラブルはなんとしてでも避けたかった。


 真幸から見て東側のデスク。一日の最初に太陽が昇るあの方角にいる人物の方へ視線を向けた。


 真幸は、緩やかに課長のデスクの前に立った。


 課長は真幸の登場で訝しむような様子だった。だが女性特有の期待を隠していない。


 ここは会社だ。しかも、上の立場のあんたは率先し、模範を見せる必要がある。下をまとめる役職にあるんじゃないのかと思った。


「僭越ながらお伝えしたいことがあります。お忙しいところ、すみません。お時間を頂戴します」


 課長は肩をびくり震わせた。「怒らないで」と縋るような表情を一瞬見せ、すぐに仕事用の顔に変わり「何ですか?」と応えた。あんたは何度も俺の期待を叩き潰した。怒りがせり上がり、もう止まらなかった。


「我々は、子供達のために働いていると思っていました。だから、自分は子供達の未来のために教育をサポートしたかった。我が社の理念は〝すべての子供にすべからく可能性の追求〟ですね」


 課長の顔がさっと青白くなる。何を言っているのだと言いたげな表情だ。それはこちらのセリフだ。おまえは、俺を、部下としてでなく男として俺をそういう目で見ていた、と確信に近い嫌悪感があった。


「母は大学入学同時に、過労で急死しました。俺はもっと学歴があればと悔やみました。高校は私立だったからです。死ぬ程、悔やみました。二度と自分のような思いをさせたくない、その一心でここを選びました」


 この位置だと真幸は周りの様子が見えない。しかし、声を張っているので、フロア全体には響いている。自分でも何が言いたいのか、分からなくなっていた。止めたいのに、止められない。誰か止めてほしい。


 課長がなにかを言いたげに真幸を見ている。課長は、真幸の境遇を知っている。なぜなら入社間もない頃、俺にこの仕事のイロハを教えてくれたのは、この人だったからだ。べらべら喋り過ぎたと後悔した。


「ここで働けることをとても光栄に思いました。……でも、もう限界です」


 感情が落ち着いてきて、止めるなら、今だったが、撤回が出来ないところまで来てしまったことを真幸は、冷や汗を背中で感じた。


「人事に伝えましたが、受理されませんでした。仕事を減らしていただけるか、今すぐ休暇が頂きたく思います。このままだと、倒れてしまいそうです」


 課長は、動揺を隠すかのように、真幸から視線を離した。パソコンに向けられている。


 「今言う話でしょうか? 皆、それどころではないのですよ。リーダーとなった責任を果たして下さい」


 真幸は、崩れ落ちそうになった。気持ちが伝わらない。耐えて、握り拳を作った。


 ーーあんたという大人を信じたかった。俺がここで働きたいと思った動機を話したくなった位には。気が緩んでいた。飲みに誘われたのが嬉しくて。段々、俺を見る、あんたの目がいやらしくなった。気のせいだと思い直したかった。


 周囲全体は戸惑い出した。ちらと真幸は視線を移したが、目を逸らされる。課長は仕事に戻って欲しそうにキーボードの鍵盤を強く叩きつけていた。


 やはり味方がいなかった。この場にいる人達の神経を疑った。真幸は、わからないでもなかった。皆、誰かに不幸を押し付けたいのだ。全て真幸の存在そのものを害悪にしたい。そう思ってしまうほど、真幸は追い込まれていた。いっそ、誰かに身代わりになってほしい。でも、それはよくない考えだった。


 それなら今は、仕方ないのか。


 ポケットに入れているスマホの存在を思い出した。最近、祖母から毎日メールが来る。


 祖母の、言葉を思い出した。「働くことは善だが、働きすぎるな」と言っていた。


 それは、守り通したい。


 真幸はゆっくりと自分のデスクに戻った。周りの視線が痛くて、決めなくてはならないのに、実行する勇気が出なかった。

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