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五分過ぎたか、というくらいで真幸は立ち上がった。開けていた窓を閉めてからTVを消した。それから居間から出る。玄関の手前にある部屋に掛けている薄いジャケットを羽織る。玄関で、ランニングシューズを履き、つま先を叩く。財布も忘れず、コートの内側ポケットに仕舞う。
それからズボンのポケットに入れていたスマホを取り出した。こういう時、スマホはとても便利だと思いながら、大都病院までの所要時間を調べた。祖母は、新横濱駅にいる。ざっと、計算する。できるだけ、祖母が来る前に、ことを終わらせたい。
真幸は、エレベーターを使うのも煩わしく、階段で足早に降りた。急ぎ足で、駅に向かう真幸の頭には、過去が流れ込む。
思い出したくはないが、仕方ない。
忘れられるわけがないだろう。
思い出さなくていい、と目を強めに閉じた。すぐに電車は動いた。
病院に到着すると、入院棟をフロアマップから探した。受付で、真幸は、尋ねる。どこの科ですか、と聞かれた。答えると、受付スタッフの目が大きく開いた。真幸は訝しんだ。
「部屋はわかりますか?」
真幸は、祖母が言った部屋番号をそらんじた。受付スタッフは、近くに座していたスタッフに声を掛けて、受付から出た。それから、真幸に向かって、神妙そうに「こちらです」と案内する。
入院棟のエレベーターに乗って奥の方へ行く。突き当たりに窓があった。
雲一つない晴天だった。
真幸は、こっそり舌打ちをした。
奥のドアに入った途端、人だかりがあった。なんだ? と思った。六人部屋の真ん中に、人が集中している。ほとんどがパジャマ姿で、入院患者らしかった。真幸はたじろいだ。
直感で「やめろ!」と真幸は怯えた。それが何に対する拒否なのか、自分でもわからなかった。
しかし、途中で案内を交代した看護スタッフは真っ直ぐにそこへ歩む。
「皆さん、おいとま頂けませんか……?」
看護スタッフが声を張り上げた。うなだれた声が四方から降って湧いた。また看護スタッフが、ぎこちなく「ね?」と呼びかける。
「あの……。つとむさんの、息子さん?」
パジャマ姿の年配の女性に声をかけられ、そして、厚みのある白封筒が出現した。
「本当に、つとむさんにはお世話になりました。ご香典の足しに。少ないですが」
真幸は、受け取るしかなかった。そして、真幸の前で、頭が垂れると、周りも次々、頭を下げに行く。
こんなことがあってたまるか。知らない人間に、父のことを感謝されている。その事実が怒りで、吐き気をもよおしそうだった。ぐっと堪えても、心の奥は暗黒の方へ淀んだ。
真幸は、握りこぶしをつくった。
「……父のために有難うございました」
真幸は、頭を下げずに、やや放心状態で、しかし、どうにかして、謝辞を述べた。
それを機に、ぞろぞろ十数人が出て行く。
真幸は唇を噛んだ。すべて、はけたと思ったが、右奥の方に人が座っている。視線を感じたが、カーテンが敷かれている。別の入院患者のお見舞いだと真幸は無視した。
看護スタッフが医者を呼びに出て行った。ベッドの上で、死んでいる真幸の父親を、真幸は見下ろす。
真幸は、今年で自分は三十路だから、十七年振りか、と思った。途端、何かが、感情が、あふれ出てしまいそうになる。眼鏡の下から両手を差し込み、目元を押さえた。
「日高さんのご子息でしょうか?」
遠慮がちな声が降って顔を上げた。四十代だと思われる医者だ。後ろに看護スタッフが男女二人、控えている。しかし、そのうちの一人はラフな格好だ。
「この度はご愁傷さまでした。早速ですが、日高さんのご逝去時の情報をお話しします」
「……はい」
女性の看護スタッフが、パイプ椅子を二人分運ぶ。医者と真幸がそれぞれ向かい合って座る。医者はカルテに指を滑らせ、読み込んでいる。指をカルテから離した時、改めて、真幸に向かい合った。
「日高勉、享年六十一。逝去日時は、本日の十一時二十三分五十六秒となります。死因は、心不全。ですが、立派な老衰でした」
その言葉が、真幸の中で何度も反芻された。医者は、険しい表情をするものの、労わるように頷いた。
「立派だな、というのが僕の感想ですね。気に障りましたら申し訳ありません」
淡々と、医者は話を進めた。
「日高さんは、半年前ほどに搬送され、当院で、治療させて頂きました」
「そうですか」
真幸は一言を答えるだけで精一杯だった。
「結果的に、僕らの力不足です。重ねて、申し訳ございませんでした。……もっと、生きてほしかった」
足の裏の感覚が急激に失いそうになった。
真幸が視線を向けると、医者は心情を引っ込めた。事務的な話題に移り、十分近く経ったところで、看護スタッフに交代した。実際は二人とも看護スタッフではなく、看護師とケースワーカーといった立場だった。
医者は深々と頭を下げ、出て行った。
けれど瞬く間に、男性のケースワーカーが説明を開始した。父の死体のこれからについて、真幸はすべて冷徹に「はい、問題ありません。それでお願いします」と承諾した。滞りそうな内容は「抱えている仕事がありまして、近日中に済ませたく思います」と告げて、ケースワーカーを黙らせた。真幸は、父の死後の扱いについて、まるで仕事の確認事項のように答え続けた。
気づくと、真幸の祖母がそばに立っていた。真幸はケースワーカーに「話を進めて下さい。早めに済ませて頂きたいです」と声を張った。そうでもしないと視界から崩れ落ちそうだった。
ケースワーカーは女性の看護スタッフと話し合って、それから、真幸に向き合った。
「質問がなければ、以上です」
「ありません」
次に看護スタッフが話す。
「では、エンゼルケアをこれから行います。その前に末期の水をお願いしたいのですが」
「あ、私が、行います!」
「末期の水とは?」と真幸が思う前に祖母が前に出る。
「まさきちゃん、説明は受けたのよね? もう葬儀会社に連絡をしてちょうだい」
祖母の必死な懇願に押され、真幸は六人部屋を出た。スマホを取り出したが、ここは病院だ。この階の入り口まで戻る。通話専用のスペースを見つけると、入るなり、スマホに検索をかける。「末期の水」が何なのか判明すると、その場でうずくまった。
情けない思いで胃が重たかった。
数分すると、ノック音がした。「まだなのか?」という叩き方だ。とっさに、ケースワーカーから貰った資料を開いて、スマホに、電話番号を打った。
「すみません、葬儀会社ですか。大都病院で父が死にました。仕事があるため、明日にも葬儀を済ませたい。簡単に済ませる葬式があればそれで。速やかにお願いします」
向こうは戸惑っていたが、真幸が「明日で済ませられるなら何でもいいです。金は惜しみません」と耳打ちするように伝えた。すると、電話先の相手は険しくなった。
「失礼ですが、火葬許可証は既にございますか?」
思考が全停止した。そう言えば、ケースワーカーがそう言っていたような気がする。
「……ありません。どこで貰えるんですか」
「お父様ですよね。お父様のお住まいの役所で死亡届を出し、火葬許可を頂いて下さい」
真幸は頭の中でざっと計算した。今日は休日。役所は休み。また父親がどこに住んでいたのか、知らない。明日は、出勤。どう考えても半日の休みが必須。忌々しかった。仕方ないと割り切るしかない。ならば? 来週の休みに一気にことを片付けると決めた。勢い込むと肩に力が入った。
「承知しました。では、次の土日のどちらかでお願いしたいので、それまで必ず許可証を貰います」
必ず、に力を込めて真幸は言った。この女はわかっている。仕事ができる同士でわかる阿吽の呼吸を感じた。
「当社ではお葬式にプランがいくつかありますが、速やかにですね?」
「はい」
「了承しました。それでは、家族葬ですよね。おひとりですか?」
「……いいえ、祖母と」
「わかりました。折り返し連絡しますので、お電話を控えさせてください。お名前も、お父様のお名前も宜しくお願いいたします」
真幸は、聞かれた通りに、自分の電話番号、名前、そして、あいつの名前を告げた。これで、第一関門はクリアした。真幸は自然に肩をいからせていることに気づいたが、直そうとは思わなかった。そうでもしなければ、立っていられなかった。それを誰にも知られないまま。
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