第3話 完璧な淑女のための完璧なスケジュール
ミネルヴァはわざわざすべて一口ずつ食べてやめている。
これは「口に合わない」という無言の圧力だろう。
それとも、この結婚に対する不服を現しているのだろうか。
アドルフにはミネルヴァの気持ちはまったく理解できなかった。
◇◇◇
ミネルヴァは廊下を歩きながら、小さなため息をついた。
(朝食だけでこんなに大変だなんて……)
食事中に音を立ててはいけない。
言葉を発してはいけない。
感情を表に出してはいけない。
おいしいと感じた料理は一口でやめなくてはいけない。
淑女であれば簡単にこなせることも、ミネルヴァにとっては難しいことばかりだった。
あんなにおいしい料理を一口でやめるのは至難の業だ。
それに、「感情を表に出さない」というのも難しい。
「お食事のあとは、どういたしましょうか?」
ミネルヴァ付きの侍女――サリが尋ねた。
ミネルヴァは窓の外を見た。
朝食のあとはいつも庭園で一時間の散歩をする。それが幼いころから決められたスケジュールだ。
それは、継母が作ってくれた『完璧な淑女』になるための完璧なスケジュールだった。
公爵夫人としての仕事がない以上、このスケジュールに従うのが一番なのだろう。
「庭園に行ってもいいのかしら?」
「この屋敷の中で、奥様の入れない場所はございません。珍しい花もたくさんありますから、きっと奥様もお楽しみいただけると思います」
サリは目を細め、優しい笑みを浮かべた。
(いい人そうでよかった)
ミネルヴァは安堵のため息をつく。
専属の侍女などついた経験がない。だから、とても心配だったのだ。
サリはゆっくりと先導しながら、庭園を案内してくれた。
「この辺りは王族にのみ許されている薔薇を栽培しております」
サリの説明にミネルヴァは何度も頷いた。
ヴァイゼン侯爵家の庭園もじゅうぶんに広い。しかし、シュダルン公爵邸はそれ以上の広さがあった。
こんなふうに花を説明してもらうのは初めてだ。
「今は蕾ですがもうすぐ咲くので、こちらでお茶を楽しまれるのもよろしいかと思います」
(お花の中でお茶だなんて素敵だわ)
ミネルヴァは想像して思わず頬を緩めた。けれど、慌てて顔を引き締める。
実家の庭園内は毎日歩いていたけれど、花の中でお茶を飲むという行為をしたことはない。
(凄いところに嫁いでしまったみたい)
ミネルヴァの知らないことばかりだ。
アドルフが由緒正しい生まれであることは、結婚前から知っていた。
けれど、こうして現実になるまで実感できなかったのだ。
それからサリは一つずつ丁寧に庭園に咲く花々を説明してくれた。
牛歩の進みだ。
あまり散歩にはなっていないのかもしれない。継母に見られたらため息をつかれるだろうか。
けれど、とても楽しかった。
ミネルヴァは太陽を見上げた。
「今、何時かしら?」
ミネルヴァが尋ねると、サリは懐中時計を取り出し確認する。
「ちょうど十時ですね」
(読書の時間だわ)
「部屋に戻ります」
「お疲れですよね。気づかずに申し訳ございません」
サリが申し訳なさそうに眉尻を下げる。
疲れているわけではない。
ミネルヴァは小さく頭を横に振り、短く言った。
「読書の時間なの」
「では、奥様のお部屋にご案内しますね」
ミネルヴァは首を傾げる。
(今朝起きた部屋が私の部屋ではないの?)
ミネルヴァの言いたいことがわかったのか、サリが目を細めて笑う。
「昨夜お使い頂いた部屋は寝室です。奥様のお部屋は別にございます」
サリの先導でミネルヴァは部屋に案内された。
太陽の光が降り注ぐ明るい部屋だ。
「お気に召しましたか?」
サリの言葉など耳に入らない。
ミネルヴァは呆然と部屋を見つめた。
寝室よりもずっと広い。可愛らしい家具が揃った部屋だった。
まるで物語の中にでも入り込んだような世界が広がっている。
窓辺に置かれた小さなテーブルと椅子。本を読むのにちょうどよさそうだ。
ミネルヴァが寝転んでも余る大きなソファーもある。
「必要な物などありましたら、気兼ねなく仰ってください」
サリの言葉にミネルヴァは静かに頷いた。
(じゅうぶん過ぎるほど揃っているわ)
嬉しくて飛び跳ねたいくらいだ。
けれど、そんなことをしたらサリを驚かせてしまうだろう。
何より、公爵夫人には相応しくない行いだ。
ミネルヴァはゆっくりと深呼吸をして、サリを見た。
「読書をするから、一人にしてもらえるかしら?」
「かしこまりました。外におりますので、何かご用がございましたらこちらの鈴を鳴らしてください」
サリはテーブルの上の金の鈴を指差す。
ミネルヴァは小さく頷いた。
「では、ごゆっくりお過ごしください」
サリは深々と頭を下げると部屋を出て行った。
扉が閉まってすぐ、ミネルヴァは大きなソファーに飛び込んだ。
(こんなに広くて素敵なお部屋までいただけるだなんて……! ここは天国なのかしら?)
ソファーの上に置かれたクッションを抱きしめる。
(ふかふか)
ソファーから飛び降りると、ミネルヴァは部屋の中を確認する。
部屋の奥には衣装室になっているようだ。ミネルヴァが実家から持って来たドレスが並んでいた。
そして、衣装室のすぐ側には可愛らしい鏡台があった。
「素敵……!」
引き出しの中には見たこともない化粧品がたくさん並んでいた。
ピカピカに磨かれた鏡はミネルヴァを映し出す。
気持ちが高揚しているせいか、頬が赤い。何より頬が緩んでいる。
ミネルヴァは慌てて頬を両手で抑えた。
(いけない。読書の時間なのに)
読書をおろそかにしては、完璧な夫人からは遠のいてしまう。
ミネルヴァは慌てて荷物の中から厚い本を取り出して、窓辺の席に持って行った。
小さなテーブルと椅子が椅子が二脚。あたたかな太陽の光が入る席だ。
特別な場所での読書は、いつも以上に気合いが入る。
ミネルヴァは文字の海に視線を落とした。
◇◇◇
ミネルヴァがシュダルン公爵家に嫁いで数日が経った。
ようやくここでの暮らしにも慣れてきたと思う。
公爵邸に来てからというもの、感動の連続でいつ表情が崩れてもおかしくはなかった。
多くの危機を回避し、ミネルヴァの公爵夫人としての威厳は保たれているはずだ。
朝食と朝の散歩を終え、ミネルヴァはいつもの窓辺の席に座った。
ぐぅ~。
部屋に大きなお腹の音が響く。
ミネルヴァはお腹をさすった。
(もうお腹がすいてしまったわ。どれもおいしすぎるせいね)
ミネルヴァはため息をついた。
朝食だけではない。昼食も夕食も出される料理のすべてがおいしいのが問題だ。
おいしいと感じた料理は一口でやめること。
このルールに従うと、ミネルヴァはどの料理も一口でやめなければならなかった。
実家ではこんなことになるのは、父が帰ってきた特別な日だけだ。
固いパンはあまりおいしくはなかったけれど、お腹にたまる。
だからといって、「もっとおいしくない料理を出して」とは言いにくい。
(読書に集中すればすぐにお昼になるはずよ)
毎日出される料理はどれもおいしく、頬が落ちそうだった。
ミネルヴァが食べたこともないような料理が代わる代わる出てくるのだ。
想像しただけで、胃が空腹を訴えてきた。
ぐぅ~。
ミネルヴァはうるさい胃をさすりながら、いつも読んでいる本を開く。
今日の本は『夫人の嗜み全集』のうちの一冊だ。
この本には淑女に必要な教養がすべて載っている。継母がミネルヴァのために買い集めてくれた大切な本だった。
大変貴重な本で、簡単には手に入らないらしい。
いつも読書の時間は継母が用意してくれた本を読んでいる。
幼いころから何度も読んでいるのだが、すべてを覚えることはミネルヴァには難しい。
『完璧な淑女となるためにも、一語一句覚えるまで何度でも読み返しなさい』
脳裏にいつもの継母の顔を思い浮かべ、ミネルヴァは小さく頷いた。
「はい。おかあさま」
ぎゅうぎゅうに詰められた文字に視線を落とす。
すると、扉が叩かれた。
コンコンコンッ。
突然のことに肩が跳ねる。
ミネルヴァは慌てて本を閉じた。
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ビジネス婚のはずですが、軍人公爵様に毎日甘やかされてもよろしいのでしょうか? たちばな立花 @tachi87rk
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