第2話 食事中、言葉を発してはなりません。

「何もしなくていい」というのは、公爵夫人としての仕事をしなくてもいいということだろう。

 つまり、アドルフは「公爵夫人らしい完璧な振る舞いができなければ、家のことは任せられない」と言いたいのだ。


 アドルフはミネルヴァに気を遣って、遠回しに伝えたのだろう。

 公爵夫人の仕事といえば、女主人としての役割だ。それは夫であるアドルフを支える大切な仕事でもある。

 まだミネルヴァのことを信用するに値しないということだ。


 ミネルヴァは口を開きかけて、慌てて閉じる。


(いけない。食事中に言葉を発しようとするだなんて!)


 一日目からアドルフをがっかりさせるところだった。

 ミネルヴァは気持ちを落ち着かせるために、ゆっくりと息を吐く。


(ご安心ください。早くみんなに認めてもらえるような夫人になってみせます!)


 ミネルヴァは心の中で誓い、この強い思いを伝える気持ちでアドルフをしっかりと見て頷いた。

 彼はわずかに眉根を寄せる。落ち着きのないミネルヴァに、すでにがっかりしているのかもしれない。


 アドルフや使用人たちに「完璧な公爵夫人だ」と認めてもらい、早くアドルフを支えるようになろう。

 だって、二人の関係は『ビジネスライク』なのだから。

 ミネルヴァは誰にも見られないように、テーブルの下で拳を握り締める。


(本当にこの人と結婚したのね)


 正面に座る男は、間違いなく自分の夫になった人だ。

 スープをすくう所作すらお手本のようで惚れ惚れしてしまう。

 昨日結婚式を終えたばかりだというのに、いまだに実感がわかない。


 ミネルヴァとアドルフの結婚は、ミネルヴァの父が決めたものだった。

 父は侯爵であり軍人だ。ミネルヴァが幼いころから彼は長い時間を辺境の地で過ごしていた。

 彼が王都の屋敷に帰ってくるのは、年に一度か二度のこと。

 父と離れて暮らすのは寂しくはあったけれど、国のために働く父を誇らしくも思う。


 そんな父が十八歳のミネルヴァに持って来たのがアドルフとの結婚だった。

 アドルフはそんな父と同じように、辺境の地へ行く軍人公爵だ。

 父がアドルフとの結婚を決めた理由はミネルヴァにはわからない。けれど、ミネルヴァはどんな理由でも構わないと思っていた。


 継母が幼いころからよく言っていたのだ。


『いいわね、ミネルヴァ。貴族の結婚というのは、親が決めるもの。自分のわがままがとおるものではありません』

『はい。おかあさま』

『親が決めた相手こそ、最良の相手なのです』


 幸いミネルヴァは生まれて十八年間、恋をするという経験はしてこなかった。だから、父の提案もすんなりと受け入れられたのだと思う。

 なにより、アドルフはミネルヴァにはもったいないほどの経歴と身分を持つ人だ。

「親が決めた相手こそ最良の相手」というが、彼にとって最良の相手となるのはとても大変だと思った。


 ミネルヴァはあまり要領がよくない。

 継母から受ける淑女としての教育はとても難しく、いつも失敗ばかりだった。

 何度、彼女をがっかりさせたことだろうか。

 アドルフとの結婚が決まったとき、継母はずっとミネルヴァのことを心配していたのだ。


『まだこの子には早すぎますわ』


 そう父に言っていたのを聞いたことがある。

 継母のもとで多くのことを学んできたが、まだ完璧にはほど遠いということだろう。

 ミネルヴァとしても、もう少し彼女のもとで学びたい気持ちはあった。

 しかし、父は継母の反対を押しのけミネルヴァの結婚を強行したのだ。


 父には父の考えがあるのだろう。

 不安な気持ちはあったものの、ミネルヴァは父のため、そしてヴァイゼン侯爵家のためになるのならばと結婚を受け入れた。


(ミネルヴァは必ずおとうさまの期待に応えてみせます)


 ミネルヴァが完璧な公爵夫人になることは、実家のためになるのだろう。

 それは、アドルフにとってもミネルヴァにとってもいいことだ。


 ミネルヴァは誓いを新たにしたあと、目の前に置かれたパンを持った。

 昨夜使った布団のように柔らかいパンだ。

 ミネルヴァはパンをひとかじりして、思わず大きく目を見開いた。


(このパンもとってもとってもおいしい……!)


 柔らかくてほんのり甘い。噛めば噛むほど味が口の中に広がって、噛むのをやめることができなかった。

 出された朝食は、父が帰ってきた特別な日にだけ出る食事のようだ。

 父が帰ってくる日は、今日の朝食のようにどれもおいしかった。

 辺境の地で一人苦労をしている父を労うための食事だ。


(きっと特別なパンを用意してくれたに違いないわ)


 ミネルヴァは感極まって涙してしまいそうだった。

 けれど、ミネルヴァは継母の教えを思い出し、グッと堪え唇を噛みしめる。


『あなたは背も小さくて、ただでさえ威厳が足りないの。その上へらへらと笑っていては、誰も女主人として認めてくれないでしょう』


 無闇に笑顔を見せてはいけない。


 それは、結婚前に何度も注意されたことだ。

 感情がすぐに顔に出てしまうことがミネルヴァの欠点だった。

 貴族の世界は足の引っ張り合いだ。感情が表に出ることは手のうちを明かすものと同じ。


『そんなことでは、簡単に騙されてしまうわ。感情を簡単に表に出してはだめよ』


 ミネルヴァは唇を真一文字に結ぶと、手に持っていたパンに視線を落とす。


(もう一口だけいいかしら? ……いいえ、だめよ。おいしい料理は一口って約束だもの)


 ミネルヴァはジッと残りのパンを見つめる。


 おいしいと感じた料理は一口でやめること。


 これも、継母の教えの一つだ。

 現在の社交界はスレンダーな体型がはやっている。おいしい物を好きなように食べるとすぐに太ってしまう。

 少しでも太れば、ミネルヴァの評価だけではなく夫の――アドルフの評価も下がってしまうだろう。

 ミネルヴァは小さく頭を横に振る。


(いいえ、それはだめよ。我慢しないと)


 このパンはどう評価を下してもおいしい。それは、まごうことなき真実だ。

 ミネルヴァはそっとパンを皿の上に戻す。そして、他の料理に手を伸ばした。

 朝食とは思えないほ豪華だ。しかも、どれも感動するほどおいしい。一口しか食べられないのがつらいほどだ。

 ミネルヴァは一口ずつしっかりと味わった。


 向かいに座るアドルフは時折何か言いたそうにミネルヴァのほうを見る。

 しかし、彼は結局何も言わなかった。

 朝食の席に静けさが広がる。

 ミネルヴァにとって、それは毎朝の光景と変わらない。

 継母と二人の食事はいつもこうだった。ようやく調子を取り戻せそうだ。


 ミネルヴァは時計を見上げる。


(時間だわ)


 時計は食事の時間の終わりを告げている。

 ミネルヴァは口元をナプキンで拭うと、静かに立ち上がった。


「奥様、朝食はお口に合わなかったでしょうか?」


 使用人は心配そうにミネルヴァに尋ねる。

 そんなことはない。

 その証拠に、どれも一口だけしか食べていないではないか。


「いいえ」


 ミネルヴァは短く返事をした。

 こんなに美味しい食事は初めてだ。口を開けばいくらでも食事がいかにおいしかったか語ってしまいそうで、口を噤む。


『お喋りな女主人は嫌われるわ』


 先日、継母からそう教わったばかりからだ。


「では、失礼します」


 ミネルヴァは丁寧に膝を折ってアドルフに挨拶をすると、静かに食堂を出た。




 ミネルヴァを無言で見送ったアドルフは、テーブルに残された食事を見てため息をこぼす。


「気難しそうな方ですね……」


 使用人の一人が、アドルフの思ったことをそのまま口にした。

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