第30話:世界が壊れなかった日

 その瞬間、世界は固唾を呑んだ。


 カオス・ヘヴンの全大陸において、全ての魔導端末が、全ての認識魔法が、そして全ての知的生命体の意識が、一つの「点」に集中していた。


 美優が口を開き、失われたはずの「言霊」が廃墟の劇場に響き渡った時、理屈の上では、世界はその重圧に耐えきれず、因果の糸が弾け、崩壊を迎えるはずだった。観測者たちが予測した最悪のシナリオ――再臨した人間による、世界の初期化(リセット)。


​ だが、何も起きなかった。


​ 空が割れることも、海が逆流することも、神殿が塵に還ることもなかった。


 美優の声は、ただの「声」として静かに空気に溶け、ルシアの翼を揺らし、リナの赤い髪を撫でただけだった。


​「……終わった、の?」


​ 誰かが呟いた。その声は拍子抜けするほど軽く、震えていた。


 美優自身も、自分の掌を見つめて立ち尽くしていた。自分の中にあった、あの爆発しそうなほどの熱量。世界を書き換えてしまうほどの「確信」。それは確かに発動したはずだった。しかし、世界はそれを拒絶するでもなく、屈服するでもなく、ただ「そこにあるもの」として、静かに受け流したのだ。


​ 劇場の外では、止まっていた風が再び吹き始めた。


 壊れかけた魔導装置は、相変わらず不規則なリズムで火花を散らしている。


 人々は、涙を流しながらも、やがて目を腫らし、明日という日の予定を思い出し始めた。


​ 世界は滅びなかった。


 ドラマチックな終焉も、神話的な救済も訪れなかった。


 ただ、残酷なほどに、日常が「続いてしまう」という事実だけが、そこに横たわっていた。


​最終話:観測者ではいられない


​ 円形の観測室。


 激しく明滅していた光の膜は、今や安定を取り戻し、凪のような静けさを湛えている。


 しかし、そこに座る七人の観測者たちの間には、決定的な変容が起きていた。


​「因果の収束を確認。……誤差、ゼロ」


​ 一人の観測者が、無機質な声を上げた。だが、その指先は操作パネルから離れていた。


 彼らが数千年かけて構築してきた「予測モデル」は、美優が起こした「何も起きないという奇跡」によって、その前提を根底から破壊されたのだ。


​「彼女は、言葉を放った。我々はそれを“世界の終わり”だと定義した。……だが、世界はそれを“ただの会話”だと解釈した。……我々の定義こそが、この世界にとっての余計なノイズだったのだ」


​ 最古の観測者が、ゆっくりと席を立った。


 肉体を持たないはずの彼の影が、初めて床に長く伸びた。


​「記録を終了する」


​ その一言と共に、空中に浮かんでいた無数のモニターが、一つ、また一つと消えていく。


 世界を管理し、安定させ、予測可能な範囲に留めておこうとする意志。それは、人間がもたらした「不確定要素」という名の毒によって、その機能を停止させた。


 もはやここは、観測室ではない。ただの、光る円い部屋だ。


​「これより先は、我々の領域ではない。……意味が決まっていない世界に、我々は居座ることはできない」


​ 観測者の一人が、最後に一度だけ映像を振り返った。


 そこには、廃墟のステージの上で、互いの健闘を称えることもなく、かといって罵り合うこともなく、ただ肩を並べて立ち尽くす三人の姿があった。


​ 美優。ルシア。リナ。


 人間、サキュバス、龍族。


 かつては決して交わることのなかった血脈が、今、一つのフレームの中に収まっている。


 彼女たちの間に、正解はない。この先、再び争うかもしれない。再び誰かが誰かを虐げるかもしれない。あるいは、信じられないほどの調和を生むかもしれない。


​ だが、観測者がいなくなった世界において、その結末を知る者は誰もいない。


 管理対象から外れた世界は、ただの「生きた場所」へと還ったのだ。


​ 廃墟の劇場に、朝焼けの光が差し込む。


 美優は、ボロボロになった衣装の裾を握り、隣に立つルシアとリナを見た。


 二人は、何も言わずに前を見据えている。


​「……お腹、空いちゃったな」


​ 美優がふと零した、あまりに卑近で、あまりに人間らしい言葉。


 ルシアは呆れたように鼻を鳴らし、リナは可笑しそうに吹き出した。


 それだけのことが、今の彼女たちにとっては、どの神話の呪文よりも重く、等身大の真実だった。


​ かつてこの地にいた人間たちが、なぜ消えたのか。


 龍族がなぜ、すべてを管理しようとしたのか。


 その壮大な問いに、答えが出る日はもう来ないだろう。


​ 人間は自滅したのか。


 龍族は淘汰されたのか。


 その答えを決めなかった世界だけが、まだ続いている。


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