第25話:ライバルの条件
控室には、甘ったるい香りが残っていた。
サキュバス特有の媚薬臭ではない。
撮影用の香水が、照明の熱で炙られ、甘さだけが膨れ上がった匂いだ。
美優は椅子に座ったまま、台本を膝に置いたまま、文字を追う気になれなかった。
扉が閉まる音がする。
気配だけで分かる。
振り向かなくても、それがルシアだと。
「……ずいぶん大人しくなったじゃない」
ルシアの声は、いつも通り艶を帯びている。
だが、どこか余計な熱がない。
「みんな、そう言います」
美優は視線を落としたまま答えた。
「言われた通りに動くようになったって。
何も言わなくなったって」
「ふうん」
ヒールの音。
ルシアはわざと、美優の正面ではなく、少し斜めの位置に立った。
対峙しない。
上下にもならない。
ただ、視界に入る距離。
「で? 楽?」
「……いいえ」
「安心?」
「……それも、違います」
沈黙が流れる。
ルシアはその沈黙を破らない。
サキュバスにとって、沈黙は武器だ。
相手が耐えきれず、欲や不安を漏らすまで待てばいい。
だが。
「私」
美優が、ぽつりと言った。
「悪いことをしてる気がするんです」
声は震えていなかった。
泣きそうでもない。
「何もしてないのに、周りが変わる。
私が何か言うと、空気が変わる。
それを……みんなが怖がってる」
ルシアは、鼻で小さく笑った。
「当たり前でしょ」
その一言は、慰めでも同情でもなかった。
「怖いに決まってる。
自分が努力して積み上げてきたものを、
あなたは“無意識”で揺らすんだから」
美優は、はっと顔を上げた。
責められると思っていた。
優しく諭されるか、
もしくは「あなたは悪くない」と言われるか。
だが、ルシアはどちらもしない。
「私はね」
ルシアは、椅子に腰掛ける。
脚を組み、真正面から美優を見る。
「あなたが羨ましいなんて、一度も思ってない」
言葉は冷たい。
だが、嘘ではない。
「だって、あなたは“選んでない”。
力も、立場も、意味も。
全部、勝手についてきただけ」
胸を突く言葉。
だが、不思議と痛みはなかった。
「私は選んできた。
欲望を煽ることも、
奪うことも、
嫌われることも」
ルシアの瞳が、わずかに細まる。
「だから、あなたを守る気はない」
きっぱりと。
「教える気もない。導く気もない。そんな資格、私にはないから」
美優は、息を詰めた。
拒絶だ。
だが、切り捨てではない。
「じゃあ……」
声が、自然と出た。
「私は、どうすれば……」
「決めなさい」
即答だった。
「黙るなら、最後まで黙りなさい。
安全な檻の中で、
誰にも嫌われず、
誰にも傷つけられずに生きればいい」
美優の指が、膝の上で強く握られる。
「でも」
ルシアは、少しだけ声を低くした。
「言うなら、覚悟しなさい」
空気が張り詰める。
「あなたの言葉は、
慰めじゃない。
希望でもない。
世界を“選ばせる”力よ」
美優は、その言葉の意味を、完全には理解できなかった。
だが、身体が理解していた。
撮影の時。
観客の視線が変わる瞬間。
何も言っていないのに、何かが伝わってしまう感覚。
「並びなさい」
ルシアは立ち上がる。
「私の隣に。
守られず、
教えられず、
それでも逃げない場所に」
一歩、距離が縮まる。
「あなたが転べば、私も笑われる。
私が負ければ、あなたの価値も疑われる」
それは、協力でも庇護でもない。
ただの相互責任。
「それが、ライバルよ」
長い沈黙。
やがて、美優は小さく息を吸った。
「……否定、されませんでした」
「は?」
「私が間違ってるとも、
正しいとも、言わなかった」
ルシアは一瞬だけ、目を見開き――
すぐに、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
「当たり前でしょ」
「あなたの答えは、あなたが決めるものだもの」
控室の外で、スタッフの足音が近づく。
仕事の時間だ。
ルシアは扉の前で立ち止まり、振り返った。
「ねえ、ミユ」
「はい」
「世界に嫌われる覚悟、できてる?」
美優は、少し考えてから答えた。
「……まだです」
ルシアは笑った。
「上出来よ」
扉が開く。
二人は、並んで歩き出した。
守る者と守られる者ではない。
導く者と従う者でもない。
ただ、
同じ高さで世界を見る者同士として。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます