第24話:観測不能領域
円形の部屋だった。
そこには重力という概念もなく、天井も壁も床も区別がない。空間そのものが、まるで深海に差し込む陽光のように淡く、青白く発光している。その光は一定ではなく、生き物の心拍に合わせて明滅するように、わずかな周期を持って揺らいでいた。
その中心に、七つの席が環状に浮かんでいる。
席に座る者たちは、いずれも「龍族」と呼ばれる存在だった。だが、そこには鱗も翼も、あるいは物理的な角さえも見当たらない。彼らはすでに肉体という不自由な器を脱ぎ捨て、思考と観測そのものに特化した階位――「高次観測者」へと至った者たちだった。
宙に浮かぶ巨大な光の膜には、三つの映像が、因果の糸を縺れさせるように並列して表示されている。
一つは、現在のグラビアスタジオ。
人工的なライトに照らされ、不器用なほど純粋な笑みを浮かべる人間の娘――美優。
一つは、過去世界の記録。
かつて繁栄を極めた人間が、その肥大化した自己愛と言葉の暴力によって、自ら絶滅の坂を転げ落ちていく凄惨な過程。
もう一つは、あり得たかもしれない別の世界線。
龍族がその完璧すぎる秩序ゆえに、世界の変化から取り残され、静かに凍りつくように消滅していく記録。
「……また数値が合わない」
最も古い観測者が、低く呟いた。その声は単なる音波ではなく、概念としての言葉であり、それ自体が空間の密度をわずかに変質させる。
「感応率、因果収束率、言霊反応値……すべてが矛盾している。計算上の予測を、彼女の存在そのものが嘲笑っている」
「対象は、今もなお単一個体だな?」
別の観測者が、確認するように光の膜を指した。
「単一だ。だが、単独ではない」
映像の中で、美優がポーズを変えた。彼女はただ、自身の腕の傷を隠すように、少しだけ肩をすくめたに過ぎない。
だが、そのわずかな挙動に伴い、スタジオの空気が不可解な変質を遂げる。
機材を運んでいたスタッフの誰かが、理由もなく慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
別の誰かが、魂の澱を吐き出すように深く、長い息を吐く。
感情を抑圧されていたエルフの助手が、何かに救われたかのように涙ぐむ。
因果干渉の波形は検出されない。魔力の発動も、精神操作の魔術も介在していない。
だが、明白な「結果」だけが、そこに物理的な質量を伴って起きていた。
「これは……」
一人の観測者が、慎重に言葉を選び取った。
「言霊ですらない。ただの“存在干渉”だ。彼女がそこに在るだけで、周囲の物質的・精神的コードが勝手に再編されている」
空間が、微かなノイズを伴ってざわめいた。数千年、揺らぐことのなかった観測室の調和が、わずかに軋む。
「人間は、かつてそれを使えたはずだ」
「否。使えたのではない。“そう在った”だけだ。彼らにとって世界とは、言葉で定義される前の、剥き出しの祈りだった時代がある」
別の映像が拡大される。龍族が世界を統治し、安定を維持していた時代。
言葉は重く、意味は法となり、感情は制御の対象だった。世界は静止画のように安定していた。
「だが、その結果がこれだ」
次の映像が、加速する世界の速度を映し出す。
変化が早まり、龍族の完璧な論理は硬直化し、思考が現実の揺らぎに追いつかなくなる。
「我々は、世界を守った。その代わりに、世界という濁流から取り残された。我々はあまりに正しすぎたのだ」
沈黙が広がる。観測者たちは、自らの種族が選んだ「静かな死」の記録を、冷徹に見つめ続けた。
「人間は逆だ」
光の膜が、人間の滅亡を映す。
「彼らは言葉を軽くし、意味を毒のようにばら撒き、すべての制御を捨てた。情報の氾濫。感情の摩耗。共鳴の暴走。結果、人間は自壊し、物理的な死を選んだ。彼らもまた、自らの過ちによって滅びた。それは揺るぎない事実のはずだ」
誰も否定しない。それがこの世界(ガイア)における唯一の正史だった。
だが。
中央に映る美優だけが、そのどちらの失敗条件にも当てはまらなかった。
「彼女は、両方の世界の矛盾を同時に抱えている。物質主義の出身でありながら、精神を無意識に調律する。言葉を軽視しているように見えて、その実、一言一句に測り知れない意味の重力を発生させている」
「本来なら、この世界(システム)が彼女を拒絶し、消去するはずだ」
最古の観測者が、光を収束させ、静かに結論を述べた。
「……だが、世界は彼女を拒絶していない。むしろ、彼女という穴から漏れ出る“何か”を、渇望しているようにさえ見える」
光の膜が、激しい不協和音を立てて揺れた。
「……当該対象を、観測不能領域(アンオブザーバブル)に指定する」
室内に、一瞬の躊躇と緊張が走った。それは彼らにとって、存在意義の放棄に近い宣言だった。
「介入は?」
「保留」
「隔離は?」
「保留。……いや、不可能だ。すでに世界という細胞の中に、彼女は浸透している」
観測者たちの思念が交錯する。
「記録だけは続行する。だが――」
最古の観測者は、映像の中の美優を見つめた。彼女は今、ルシアに顎を持ち上げられ、その瞳に静かな光を宿している。
「我々がこれからも“観測者”であり続けられるかは……彼女が何を口にするか次第だ」
その瞬間。
映像の中で、美優がふと視線をレンズの外――あり得ないはずの「虚空」へと向けた。
まるで、隔絶された次元から自分を見つめる「視線」に、確信を持って気づいたかのように。
観測室の光が、初めて不規則に、そして激しく明滅した。
数千年の静寂が、一枚の薄い硝子が割れるような音を立てて、崩れ落ちた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます