第19話:言葉の重さ

 この世界の朝は、常に魔法的な調和と共に始まる。

 この日の撮影現場は、都心の喧騒から少し離れた、緑豊かな「風の神殿跡地」。歴史的な石柱と現代的な照明機材が混ざり合う、この世界独特の風景の中、種族混合の豪華なグラビア撮影が進められていた。

​ 現場には、透き通るような肌を持つエルフのモデル、星の動きを読むルナ族の少女、そして誇り高きヴァンパイアの貴婦人。各界のトップを走るアイドルたちが、いつも通り和やかに談笑し、スタッフたちは慣れた手つきで反射板を調整している。

 そこに漂うのは、ある種の完成された、予定調和の安心感だった。

​ 美優は、その輪の端で独り、衣装の裾を直していた。

 一週間前のリナとの会話、そしてルシアとの対決。それらの記憶が胸の奥に沈殿し、彼女の心に重いフィルターをかけている。周囲の喧騒が、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。


​「……うまくいくと、いいな」


​ 美優は鏡に向かって、誰に聞かせるでもなく、小さく独り呟いた。

 それは願いですらない、現場に入る前の、日常的な、ほんの些細な「独り言」に過ぎなかった。

​ 撮影が始まると、現場の「空気」が微細に震え始めた。

​ 美優がカメラの前に立ち、レンズを見据えた瞬間、スタジオのライトが一瞬だけ瞬き、まるで意志を持っているかのように柔らかく、美優の輪郭を縁取った。

 凪いでいたはずの広場に、優しい風が吹き抜ける。それは彼女の髪を最も美しい角度でなびかせ、最高の一枚を切り取るために用意された舞台装置のように、完璧なタイミングで訪れた。


​「今の……完璧だ。奇跡か? いや、出来すぎている」


​ カメラマンが戸惑ったように呟く。指先が震え、シャッターを切るタイミングが、自分ではなく「何か」に支配されているような感覚。彼はプロとしてのプライドゆえに、それを「ただの偶然」だと自分に言い聞かせた。だが、ファインダー越しに見える美優の姿は、もはや単なる被写体を超え、風景そのものと溶け合い、世界に祝福されているように見えた。

​ 異変は観る側の反応にも現れた。

 撮影データをチェックしていたスタッフたちが、次々と沈黙していく。


​「……何、これ。ただの写真なのに、懐かしい匂いがするわ。森の奥で、一番安らいでいた頃のような……」


 エルフのモデルが、自身の記憶にないはずの郷愁に瞳を潤ませる。

 一方で、ヴァンパイアのモデルは、美優の映ったモニターから不自然に目を逸らした。


「……近寄らないで。その子、何かが『多すぎる』本能が、視ることを拒んでいるわ」


​ 多種族の個性が混ざり合うこの世界において、美優の存在だけが、調和を乱す「不協和音」でありながら、同時に抗い難い「真理」として、世界側のバランスを揺さぶっていた。

​ その様子を、現場の端で見つめていたリナが、苦しげに表情を曇らせた。

 彼女は美優が近づくと、スタッフの目を盗んでその細い肩を掴み、耳元で鋭く問いかけた。


​「……ミユ。今、何か言った?」

​「え? ……ううん、何も。ただ、うまくいくといいなって思っただけ」


​ 美優は不思議そうに小首を傾げる。自分自身でも、何が起きているのか全く理解していないのだ。リナはその無垢な瞳を見て、いよいよ逃れられない宿命が動き出したことを悟った。

​ 決定的な出来事は、撮影が終わった直後の控室で起きた。

 美優が、片付けをしている若手のスタッフに向かって、心からの笑顔を向けた。


​「ありがとう。今日は本当に楽しかったわ」


​ その瞬間だった。

 数分前の撤収作業中に、うっかりスタッフが倒して粉々になっていたガラスの小道具。

 誰の手も触れていない。修復魔法が使われた形跡もない。

それなのに――

 床に散らばっていたはずの破片が、音もなく“寄り集まって”いた。

 割れたままのガラス片が、まるで元の形を思い出そうとするかのように、互いの縁を探り合い、几帳面に並べられている。

 完成はしていない。

 ひびも、欠けも、そのままだ。

 だが、そこには偶然ではあり得ない「秩序」だけが残されていた。

まるで、世界そのものが、「壊れてしまったこと」を、どうにか理解し直そうとしているかのように。

 周囲のスタッフは別の作業に追われ、誰一人としてその光景に気づいていなかった。

 ただ一人、部屋の隅にいたリナだけが、その不自然な配置を見つめ、喉の奥が凍りつくような感覚に襲われていた。

——直っていない。

 なのに、「戻ろうとしている」

 その事実こそが、何よりも彼女を戦慄させた。


​ その日の夜。

 美優は一人、街角に貼られた自分の大きな広告を見上げていた。

 昨日まで、それは単なる「仕事の結果」でしかなかった。だが、今の彼女には、広告の中の自分が自分ではない「巨大な何か」に繋がっているような、奇妙な感じがした。

​ 胸がざわつく。言葉が、肉体を離れて世界に溶け出していくような、底知れぬ恐怖。

​ 同じ頃、事務所の屋上で一人、夜空を見上げるリナがいた。

 彼女の瞳には、かつての日本人が龍と共に空を駆けていた時代の、失われた星図が映っている。


​「……始まっちゃった。もう、誰にも止められない」


​ リナの呟きは、重力に従うことなく、夜の闇へと吸い込まれていった。

 美優の放った「言霊」が、数千年の眠りを経て、この世界の「構造(システム)」に最初の亀裂を入れた夜だった。

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