Bar Polaris

アルスターはクタクタになった脚を引き摺りながら夕闇に沈み始めた路地を歩いていた。


アルスターは冒険者になりたい、そんな夢を見て最近この街へやってきたばかりだ。

とはいえ、駆け出しの、登録したばかりの冒険者に回ってくるような仕事は雑用程度のものだ。

英雄の冒険譚のように、突然現れた強敵と戦って街の人たちから称賛される、なんて都合のいいことは、アルスターには起きなかった。


その日の仕事はもうすっかり馴染みになった食堂での補助だった。

店主は良くしてくれる。筋が良いな、なんて言って、このままウチで働かないか?なんて言ってくれるくらいには。


食堂での仕事は決して嫌ではなかった。

厨房に立ち、料理を作り、美味いと言ってもらえることは喜びではあった。賄いも出してもらえて、腹も膨れてはいる。

だけど、なりたいのはあくまでも冒険者であって、労働者ではないのだ。


元いた村が魔物に襲われた時に助けてくれた冒険者の背中。オレもあんなふうになりたい、そう思って出てきたのに。

オレは、何をやってるんだろうか。


そんな鬱憤がアルスターの心の中に、澱のように沈んで、積み重なって、もう限界だった。

潰れそうな心をどうにか忘れたい、そんな気分――つまりは、酒が飲みたかった。


「クソッ…!なんで酒場で乱闘なんかするんだよ…!」


行きつけだった酒場は、昨夜冒険者同士の乱闘で樽もカウンターも…入り口すらも壊され、臨時休業。

エールの一杯すら飲めなくなっていた。


つい、自分には手の届かない本物の冒険者の愚行に愚痴がこぼれる。


ふと、横道の辺りで看板を立て掛けている、黒いベストを着た男と目が合った。

看板には文字の代わりに、木製のマグから黄金色の泡が零れ落ちる絵が描かれている。


「……おい。そこ、酒場か?」

「ええ。小さな店ですが、一応は酒場ですよ。お疲れのようですね、冒険者さん?」


冒険者。今はその言葉が煩わしく感じた。

「……ああ、疲れてるさ。だが、金はそんなにねぇぞ」


アルスターの刺々しい言葉に、男は動じることなく扉を開ける。

「ピンキリですからね、飲むお酒によりますよ。

……宜しければ、一杯いかがですか?」


その言葉に招かれ、アルスターは店の中へと入っていく。


中はとても狭い店だった。カウンターは八席程の椅子が規則正しく並んでおり、奥には四名程が座れそうなテーブル席があるだけ。

店内は薄暗く、各席を柔らかな光が照らしている。


男がカウンターの中に入る。

その背後には、夥しい数の見たこともないボトルが規則正しく並んでいた。


その物言わぬ迫力に、思わず圧倒される。

いかにも高そうな酒…大丈夫なのか。ぼったくられるんじゃないだろうか。


「すげえな、これ全部酒なのか?」


「はい。

ここは"バー"ですから。」


カウンターの向こうから、男が丸めた白い布切れを差し出してくる。

差し出されたままに受け取ると、思いがけず温かい。思わず取り落としそうになりながら、その布切れをお手玉でもするように投げた瞬間、空中で広がっていく。


「なんだこれ!」


「ああ、それは"おしぼり"ですよ。

あまり馴染みがないかも知れませんが、どうぞお手やお顔を拭いて、気分をリフレッシュさせてくださいませ。」


言われるがままに布切れを完全に広げて、顔を拭き手の汚れを拭う。

どこか清められたかのような爽快感が心地よかった。


「おお、なんだかわかんなかったが気持ちいいな、これ。

おし、酒だ酒!

まずは、エールを。安いやつでいい」


「かしこまりました。」


小さな瓶の蓋を、見たこともない銀色の道具で開けている。

その瓶の中身を、求めていたものよりは小さな、だけど美しいグラスに注ぐ。

黄金の色彩と、白い泡がグラスの底から優しく立ち上がっていくのが見えた。


「お待たせしました。

エールでございます。」


手元に置かれたそのグラスは、いつも飲むエールとは少し違って見えた。


まさか、こんな小さなグラス一杯で銀貨一枚、なんてぼったくりにあったりはしねえだろうな、と、急な不安に襲われる。

それでも、目の前の酒の魅力には勝てなかった。


グラスを持ち上げ、唇に近付ける。

その瞬間、僅かなアルコールの香りを含んだ華のような柔らかな香りが鼻腔をくすぐり、それが爆発するように広がっていく。


「……なんだこれ!」


「おや、どうされました?」


「いや、これ…なあ、本当にエールなのか!?」


「はい、間違いなくエールですよ。

もしお口に合わないようであればそちらはお代は結構ですので、どうぞお確かめください。」


お代は結構、と言うなら難癖付けて帰ればいいか。

そう、自分に言い聞かせて、もう一度だけその香りを愉しみながらグラスに口を付ける。


途端に、あの華やかな香りが口の中を満たすのを感じる。

間違いなくエールの味わい。

決して冷えているわけではない、だがいつものただ温い、酔うためだけのエールとは全く違う…喉に流し込めば、その深いほんの僅かな苦味の奥にある爽やかな香りが、口の中に広がっていく。


「お気に召していただけたようですね。」


男の、そんな声に我に返る。

気付けば、手の中にあるグラスには、白い泡の痕跡だけが三段の線となって残されていただけだった。


「あ、ああ…なんだこれ、いつも飲むエールとは…まるで別物だ!」


「ありがとうございます。

エールは香りが命、ですから。

その温度が香りが開いて一番美味しく飲めるんですよ。」


温度。

そんなこと、気にしたこともなかった。


一度だけ、旅の魔法使いが酒場にいた時、戯れにエールをキンキンに冷やしていたことがあった。

その時のエールは冷たく、喉を洗うような爽快感はあったが、香りも味も死んでいた。


「すげえな…温度一つでこんなに変わるのか…!」


芳醇な味わいが、今もなお口の中を喜ばせているのがわかる。

ささくれ立っていたはずの心が、少しずつ心の棘が削れて、喜びに染められていくのを感じた。


男はそんな彼に、提案するように声を掛ける。


「同じビールでも、もっとスカッとするような、喉に響くものもありますが……試されますか?」


「へぇ、それも面白そうだな。飲ませてくれよ!」


今度は、また違う絵が貼り付けられた瓶を開けている。

想像上の動物だろうか?馬に似た、見たことのない動物が描かれていた。

てっきり今目の前にあるグラスに注ぎ足されると思っていたのに、わざわざ新しいグラスを出して注ぎ出す。


「おい!

そんな似たような酒なら別にわざわざ新しいグラスなんか出さなくても!」


「同じビールですが、せっかくの味わいが混ざってしまっては台無しになりますから。

きっと、飲んでいただければ分かっていただけると思います。」


そう言って、さっきのエールとそっくりな黄金色の液体と、白く細やかな泡が乗せられたグラスをオレの前に差し出してきた。


どんなもんだろうと握ろうと触れた途端、手が跳ねる。

冷たい!


「今度のは冷たいのか!?

さっきのエールはここまで冷たくなかっただろう!」


「はい。

先程のエールとは違いまして、このラガービールはキレを愉しむものですから。

このくらい冷やした方が美味しくお召し上がりいただけるんですよ。」


また、温度…!

そんな細かく温度をコントロールするだなんて、コイツは実はものすごい魔法使いなんじゃないだろうか?


だけど、さっきのエールは本当に美味かった。

この男が言う、美味い酒が…アルスターは気になって仕方なかった。


もう一度、そのグラスをしっかりと掴み、口元に寄せる。

香りは先程のエールのような、華やかさは感じない。薄く、麦芽由来の香りがほのかに香る程度。


口を付けると、途端に鮮烈な冷たさが広がる。

確かな苦味、だが嫌ではない。その奥が透き通るような、そんな…そして、喉元を通り過ぎる前には、その苦味がスゥッ、と消えるような。


これが、この男が言っていたキレ。


またしても、気が付けばグラスには白い泡の跡が層になっているだけだった。


「ラガービールも、中々に美味しいでしょう。」


「ああ…すげえな、これ…。

見た目はエールとそっくりなのに、全然違う…!

さっきのエールが花が咲き乱れる草原なら、こいつは晴れた日の川下りだな!

すげえスッキリする!」


しげしげと、手の中のグラスを眺める。

こんなに酒が違うものだとは思いもしなかった。


ふと、身の前の男の、背後に並ぶボトルの数々が目に入る。

これが全部酒…どんな味がするんだろうか。

急に気になって仕方がなくなってきた。


「なあ…その、後ろに並んでる酒は、また違うのかい?」


男は一度後ろを振り返ってから、もう一度アルスターを見て告げる。


「そうですね、すべての酒にそれぞれの美味しさがあり、そのどれもが変わってきます。

少し強くなりますが…試してみますか?」


喉がゴクリと動くのが分かる。

飲んでみてぇ…!


「ああ…飲んでみてえ!

一杯、もらえるか?」


男がにこりと笑う。

「では…少し炭酸を効かせて、飲みやすいものにしてみましょうか。」


取り出されたのは、黄色い紙の貼られた透明ボトル。見たこともない文字が、その黄色いラベルの真ん中で自信を主張するように、力強く書かれている。


その透明なボトルから、銀色の不思議な形の容器に注ぎ、それを出してくるのかと思ったらそのままもっと大きな銀色の容器に移し替えた。

だが、そこに入ったのは容器の大きさに対して余りにも少ない。


そんな風に思っていたら、男はレモンを取り出し、搾り始める。

先程の透明なボトルから流れ出していた、不思議な香りを、そのレモンの爽やかな柑橘の香りが上書きしていく。

その、レモン汁をまた先程の小さな容器で計り、大きな容器に移し替える。


そして、よく分からない透明な液体を、長い長いスプーンで一杯。

それを容器の中でクルクルと混ぜていた。


アルスターにとっては初めて見る光景だった。何をしているのか、何の意味があるのかは分からない。

だけど、先程のエールとラガーで、もう分かっていた。


この男は、酒に対しては絶対に嘘を吐かない。本当に美味しいものを出してくれるはずだ。


それは、もはや確信だった。


男が、少し屈んで大きな容器を取り出す。

トングで挟んで、先程の容器に入れているのは…まさか。


「おい…それ、氷か!?」


「ええ、氷ですよ。

――ああ、こちらでは氷は貴重なんでしたよね…。

……。

いえね、実はこちらの氷は、知り合いに魔法使いがいまして。

その伝手で、特別に安く大量に手に入るんですよ。

ですので、お気になさらず。」


そう言って、銀の容器に氷を詰め込んだ後、男はその容器に二つの蓋を被せ、作業台に軽く叩き付けて――振り始める。


カシャ、カシャ、カシャカシャカシャカシャカシャ――


リズミカルな音が酒場に響き渡る。

何をしているのかは全く分からない、だが、これを邪魔してはならない、ということだけは、男の真剣な表情が物語っていた。


息をするのも忘れて魅入ったその動作にも、終わりの時が訪れる。

ゆっくりとその動作がペースを変え、一際高い音を立てて男の腕が止まる。


そして、細長いグラスを取り出し、銀色の容器の小さな蓋を開け注ぐ。

そして、注ぎ終わったと思うと、今度は大きな蓋を外し、中の氷を3、4個グラスの中に落とした。

そして、小さな透明の瓶を取り出し、エールやラガーを開けていた銀の道具で蓋を開け、そのグラスに注ぐ。

液面が持ち上がっていくのと同時に、シュワ〜っという炭酸の弾ける音が聞こえてくる。

液面が8割ほどにまで来たところで注ぐ手を起こし、さっきも使っていた細長いスプーンを逆さにして、一番下の氷を持ち上げるように、二回――。


流れるような、無駄のない動きだった。それは、かつて一度だけ見た、熟練の冒険者の剣捌きのような、美しさすら感じるもの。


アルスターは、目の前にそのグラスが出された瞬間に、息をすることを忘れていたことに気付いた。


「ジン・フィズでございます。」


氷が入った飲み物など、今までに飲んだことはない。


だが、そのグラスから漂う、嗅いだことのない不思議な、スカッとするような香り――先程の、透明なボトルから漂っていた香りと、柑橘類の爽やかな香りが渾然一体となった、そのグラスの誘惑には勝てなかった。


手が自然と伸びてゆく。

グラスは早くも薄っすらと結露を始めている。滑らないようにしっかりと掴み、口元へと運ぶ。


鼻を抜けるような香りが通り抜け、口に含むと――クリアな味わいの中に、わずかな苦味、酸味と、包み込むような甘さを感じる。

強い炭酸がそれらを洗い流すように口の中で弾け、喉を通り過ぎる時には清々しさを覚えるほどの清涼感を感じさせた。


「おお…これは…さっきのエールともビールとも全く違うな!

ビールほど苦くもない、しっかりと芯を感じるような力強さがあって、それを和らげるような甘さ――それと、ああ、この酸味だ!この酸味がそいつらをまとめ上げるような爽やかさを味合わせてくれる!

この炭酸がまた口の中を楽しませてくれるじゃないか!」


男が少し驚いたように目を見開く。こんな表情もするのか、とアルスターは少し可笑しくなった。


そのまま、喉を鳴らしてそのジン・フィズとやらを飲む。

もう、さっきまでの鬱憤はどこかに霧散し、目の前の酒の美味しさに夢中になっていた。気が付けば、口角は上がり、自然と笑みが浮かんでいた。


「いやー、美味いな!

初めて飲んだぜ、こんな酒!

なあ、もっと面白いのはないのか?」


「そうですね…では、少しだけ違う"カクテル"を試してみますか?」


「へえ、次の酒はカクテルっていうのか!

じゃあそれをくれ!」


「ああ、すみません。

カクテル、というのは、こうして幾つかの材料を混ぜ合わせたお酒のことを言うんです。

ですから、先程のジン・フィズもカクテルの一つなんですよ。」


「へぇ〜!

エールとワインくらいしか知らなかったが、そうなるとカクテルってのはいくらでもできそうだな!

次の、その少しだけ違う、ってカクテルも面白そうだ。」


「かしこまりました。」


そう言って、男はしゃがんで今度は透き通った青いボトルを取り出す。その青いボトルには、薄っすらと霜が降りていて、どれだけ冷やされていたかを雄弁に物語っていた。


また新しい、細長いグラスを取り出し、氷を落としていく。

さっきの細長いスプーンで、氷だけを回して、そっとほんのわずかに溶け出した水を捨てる。


さっきの、小さな容器を取り出し、今度は大きな方を上にしてその青いボトルから注ぐ。容器を傾け、グラスに流し込む。

そして、ジン・フィズの時に使ったのとはまた違う、でも同じ大きさの瓶を取り出し、蓋を開けてグラスに注いでいく。

さっきよりはほんの少しだけ控えめに聞こえる炭酸が弾ける音が聞こえた。


そして、見たこともない鮮やかな緑の、形はレモンにそっくりな柑橘系の果実を取り出し、小さくカットする。

長いスプーンの反対側の、フォークのような部分に刺して、グラスの上からその果汁を搾り入れる。


そして、ジン・フィズの時のように、スプーンを底まで入れて、氷を持ち上げるように、二回。


「ジン・トニックです。」


「ジン、トニック…?

さっきのはジン・フィズだったよな…?

兄弟みたいなものか?」


「まぁ、兄弟と言いますか。

同じジン、というお酒を使っているカクテルなんですよ。」


「うん?

だけど、さっきとは全部違うじゃないか。

あの、黄色いのが貼ってあるのがジン、じゃないのか?」


「よくご観察なされてますね。

実は、ジン、というのはお酒の一種類でして。

色々なジンがあり、それぞれに特徴があるんです。

その特徴も愉しんでいただけたらと思います。」


「へぇ、まあ、あんたの言うことなら間違いはないんだろう。

いただくよ。」


グラスを持ち上げ、口に含む。

それだけで、クリアな味わいの奥に広がる華やかな味わいが口の中を満たす。

甘さは消え、わずかな苦味が、鋭い酸味によって上書きされ、少しだけ弱く感じる炭酸が、優しい余韻だけを残して消えていく。


「これ…いや、確かにさっきのジン・フィズとの共通点はある…だけど、こっちは全然違う、全然華やかで、広いというか…さっきのがドッシリと構えたオークの大木なら、こいつは…そのオークの葉を優しく揺らすシルフだ!」


「素晴らしい表現ですね。

お客様は、確かな舌をお持ちのようだ…。

バーテンダーとしても、お客様のような方にいらしていただけると嬉しく思います。」


「バーテンダー?」


「はい。

私たちのように、バーのカウンターに立って、お酒を提供させていただく人間のことを。


バーテンダー、と呼びます。」


「そうなのか。

オレは、冒険者のアルスターだ。

とは言っても、まだまだ駆け出しなんだけどな。」


「アルスター様でございますか。

どうぞ、これからもご贔屓にしていただけると嬉しく思います。」


「ああ、もちろんだ!

この店の酒を飲んだら、もう温いエールで我慢できる気がしねぇよ!」


目の前の男…バーテンダーが、ニコリと笑う。

その穏やかな微笑みは、アルスターが店を気に入ってくれたことを、素直に喜んでいるのがありありとわかるものだった。


「しっかし…このジン・トニックってのも美味いな…。

なあ、この、ジン、ってやつは他にもあるのかい?」


「そうですね…今当店にあるだけでも、大体…十種類程度でしょうか。」


「そんなにあるのか!

それは面白そうだ、楽しみが増えたぜ!

絶対に一流の冒険者になって、稼ぎまくって、ジンだけじゃねえ、この店の酒を全部飲んでみたいもんだ!」


「それは楽しみな夢が出来ましたね!

いつでも受けて立ちますよ?」


「言ったな?

よし!やるぞ!

オレは、絶対に一流の冒険者になるんだ!」


「アルスター様ならなれますよ、大丈夫。

観察力も高いですしね。

私は冒険者ではありませんが。観察力は冒険者にとっては一番大切なこと、なんでしょう?」


アルスターが冒険者を志して、そんな風に認められたのは初めてだった。

だから、つい嬉しくなって気が大きくなってしまったのかも知れない。


「ああ、そうだ。

観察力がなければ、無謀な失敗をしてしまうもんだ。冒険者は、臆病じゃなきゃダメなんだよ。

勇敢なヤツから危険に突っ込んで行って死んじまうもんなのさ。

だからオレは、絶対に死なない。生きて、冒険者の、王になってみせる!」


「素晴らしい決意ですね。

アルスター様が冒険者の王になった際には、是非自慢させてくださいませ。

その宣言を行った店、として。」


「ああ…!

なあ、王に相応しいカクテル、なんてのはあるかい?

あるんなら、飲んでみたいな!」


「ございますよ。

ただ、かなり強いお酒ですので…そうですね、今日はその一杯を最後にしてお帰りになる、とお約束いただけたならお出ししましょうか。」


「そうだな、引き際も肝心だ。

約束するよ。」


「かしこまりました。

では、その前にこちらを。

ここまでにも、少し杯を重ねておりますので。」


そう言って、小さな皿にナッツを盛ってアルスターの前に置く。

「おお、いいね!

ちょうど何か腹に入れてえと思ってたところだったんだ!」


「こちらは今日は特別に私から、ということで。

それと、こちらも。」


そう言って、そのバーテンダーはジン・トニックの横に小さなグラスに無色透明の液体を注いで置く。


「これは?

コイツも酒なのか?」


鼻に寄せて匂いを嗅ぐが、何の香りもしない。


「いえ、それはただのお水です。

チェイサーと言いまして、強いお酒を飲む時や、杯を重ねた時に胃を休めるために飲むんですよ。」


「そんなに強い酒なのか…!

これはオレも気を引き締めて飲まなきゃいけないな、ありがとう、バーテンダーさん!」


アルスターは、もうこの時には酒についてはこのバーテンダーの言うことを全て信じる気になっていた。

だから、最初の猜疑心が嘘のように、その水を素直に口にする。


ただ違ったのは、その水が――


「何だこりゃ!

水ってこんな美味かったのか!

泥みたいな臭さがどこにもねえ!

こんな水なら、いくらでも飲めるぞ!」


男はニコリと笑いながら、

「そう仰っていただけると嬉しいですね。

アルスター様は確かな舌をお持ちのようですが、料理のお仕事もされていたのですか?」


「ああ、日銭を稼ぐのに、だけどな。

冒険者志望なら熱さへの耐性も必要だろうってんでいっつも厨房に入れられたんだ。」


「なるほど、そこで味覚や食材を通した観察眼も磨かれた訳ですね。

素晴らしいご経験を積まれたのですね。」


その言葉に…アルスターは胸の内が熱くなった。

これまで、生きるために積み重ねて来た、望んでもいない労働。

それが、夢に向かっての確かな血肉となっていることを、この時初めて理解できたのだ。


無駄じゃ、なかった――。


「ありがとうよ、バーテンダーさん。」


「是非私のことはマスター、と――そうお呼びください。」


「マスター、か…間違いない、あんたは酒のマスターだな!


そういえば、何で強い酒を飲むのに、一杯だけなんて約束させたんだ?

酔い潰れるのは客の勝手だろ?


オレが今までやってた酒場なんてそんなもんだぜ?」


マスターの目に、強い光が宿る。

その光は、強敵を前に街を守ろうと立つ冒険者のものと同じ――


「バーテンダーというのは、お客様が店の扉を開けて無事に帰宅し、翌朝を快適に迎えることを約束する者――その約束を守れない者には、バーテンダーを名乗る資格はないのです。」


アルスターの背中に、冷たいものが流れる。

誤魔化すように、手元のジン・トニックを飲み干した。


「いや、マスター。

知らなかったとはいえすまない。

失礼なことを聞いてしまったな。

バーテンダーというのは――すごいんだな。」


「いえ、とんでもありません。

では、未来の冒険者の王にカクテルの王様――マティーニをお作りさせていただきますね。」


そう言ってマスターは、小さな三角形に、細長い脚のついたグラスを取り出し、しゃがみ込む。

続いて大きなグラス――普段アルスターが酒場で飲むジョッキよりも大きいのではないだろうか、表面に複雑な幾何学模様の刻まれたグラスを取り出し、背後を振り向き、――マスターはそこで今日、初めて迷う姿を見せた。


小さな独り言が聞こえてくる。

「――に合わせるなら――いや、でも流石に今日初めて飲むのだから少しでも柔らかく仕上げて――よし、これにしよう。」


そんな風に呟きながら、緑色のボトルを取り出す。大きなラベルには、やはり緑色で何かの文字が書いてあった。


マスターはその後も手を止めない。

小さな瓶を取り出す。中にはオリーブに似た、だけどその実の真ん中には赤い何かが詰められているのが見える。

そして、レモンを横に置く。


先程の大きなグラスに氷を落としていく。一つ、二つ、三つ――その氷がグラスの七分目まで来たところで氷を入れる手を止める。

先程の緑色のボトルの蓋を開け、無造作に氷の上から流し入れ、氷全体にかかった程度でそれを捨てる。

白ワインに似た香りが漂い、その中に僅かなハーブが混ざる。


細長いスプーンを取り出し、ゆっくりとグラスの縁から挿し込み――ゆっくりと回り始める。

スゥ、っと回り始める氷に、店の灯りが反射して、アルスターの目は釘付けになった。


氷を回している、なのにコトとも音は立てることもなく、氷が生む乱反射だけが、奇跡のようにアルスターの目には映っていた。


その奇跡はすぐに終わりを迎える。

ゆっくりと回転が終わりを告げ、その長いスプーンがグラスから引き抜かれる。

不思議な、バネのようなものがついた銀色の蓋を被せるのが見え、マスターは蓋を抑えたままカウンターから見えない場所に傾ける。氷が動く音と、バシャ、という音だけが聞こえた。


もう一度グラスが視界に戻って来た時には、銀色の蓋は外され――グラスの中には、艶やかな氷だけが残されていた。


失敗して捨てたのだろうか。このマスターともあろう男が。

しかし、そのままマスターはしゃがんで丸い肩の透明なボトルを取り出す。丸いラベルの真ん中には船が描かれ、ボトル全体は見るだけでも凍り付きそうな霜に覆われていた。


そして。

あの、銀色の小さな容器に、その霜の降りたボトルからゆっくりと液体を注ぐ。

それを、二回。二回目は、一回目よりも少なく見えた。

先程までのジンの香りに似た、だけどどこか柔らかく、海を思わせる香りがアルスターの鼻腔をくすぐる。


そして、銀色の容器に緑色のボトルから、今度はハッキリと抑えられた量の液体が注がれ、グラスに注がれる。


そして、またあの細長いスプーンを取り出し、グラスの縁から挿し込み――ふぅ、とマスターが小さく息を吐き出すのが見える。


唾を飲み込む音が聞こえる。

それが、アルスターが自分の音だと気付く前に――そのスプーンは静かに回転を始める。


先程よりもずっと多い液体の中に煌めく氷、その氷が生むプリズムは刹那にめまぐるしく表情を変えていく。

キラキラと輝く氷と、マスターの指先だけが、今この店の中で動いていた。

音も、空気さえも張り詰めていくのがわかる。

大きなグラスを支えるマスターの手は、全てを受け止めるようにびくともすることはなく。


やがて、その回転は、始まった時と同じように静かに終わりの時を告げる。

その回転速度を緩やかに抑えながら、氷がその動きを止めた時。

アルスターは、知らず知らずに、深い息を吐き出していた。


マスターはそのまま、またしゃがみ込んで、あの小さな三角形の脚付きグラスを取り出す――そのグラスは白く曇っていた――コト、と小さな音を立てカウンターに置く。

大きなグラスに、銀色の蓋をして、その小さなグラスへと無色透明な液体を注いでいく。

液体が注がれるにつれ、白く曇ったグラスが、透き通っていくのがアルスターには魔法のように見えた。


マスターはそのまま、太い針のようなもので、小さな瓶に入った赤い物が詰め込まれたオリーブを刺し、小さなグラスに滑らせるように沈めていく。


そして、レモンの皮を薄く切り、グラスに向かって折り曲げ、僅かな汁を飛ばす。

店の灯りに照らされて、液面に飛んでいくその僅かな飛沫が、柑橘類の爽やかな香りを纏ってそのマティーニの完成を祝福しているように見えた。


「お待たせいたしました。

マティーニでございます。」


そう言って、ジン・トニックのグラスを下げ、マティーニをアルスターの前に差し出して来た。


アルスターは、もう何も言うことができなくなっていた。


震える指でグラスの脚を持つ――先程マスターがそうしていたように。

口元に寄せると、これまでになく強いアルコールの香りが鼻を刺激する。

その中に、不思議な…どこか薬品のような香りと、僅かな白ワイン由来の葡萄の香りが見え隠れする。


これを、今のオレが飲んで良いのか。

アルスターは一瞬の逡巡を経て、目を閉じてそのグラスを口に寄せる。


最初に広がったのは、海。

確かに、先程飲んだ二杯のカクテルに共通するような味わいもあるが、鮮烈な印象よりは奥深く、穏やかで――広がりを見せるような、そんな味わい。

そして、僅かなスパイスのニュアンスが顔を覗かせ、フワリと広がるように消えていく。

そして、芳しいクルミやナッツの香ばしさが現れたかと思えば、爽やかな酸味が通り過ぎ、最後に柑橘系の香りが鼻を抜けて――途端に、強いアルコールが喉を焼く。


「ウヘッ、ゲホ、ゲホッ!

なんだこれ、喉が焼ける!

すげえな、これは…酒が強いのか!」


「はい。

出来るだけ癖の少ないジンを用いて、柔らかくなるようにとは作ったのですが、やはりまだ少し強く感じましたか?」


マスターはそう告げながら、チェイサーのグラスに水を注ぎ足す。

アルスターは慌ててその水を飲み干し、その手の中のグラスを眺める。


「いや、確かに…コイツは強いな。

美味い、という気はするんだが、喉が、痛い…。」


「そうですね…。

いや、失礼しました。

こちらのマティーニは、杯を重ねて初めてその味わいが分かるようになる、そんな難しいカクテルです。


もしかしたらアルスターさんなら、と思ったのですが…。」

そう言いながら、もう一杯水を注いでくれる。


「いや、不味いわけではないんだ。

ただ、味が複雑すぎて…。

いや、うん。


確かに、これは難しいカクテルだ。

王になる、というのはそれだけ遠く険しい道、ということなんだな。」


「そう、なのかも知れませんね。

それでも、不味い、と感じなかっただけでもアルスターさんは素晴らしいと思いますよ?」


「いや、うん。

オレが今立っている場所がハッキリと見えた気がする。

今オレがこのマティーニを飲んでも美味しいとは言えないように、オレは冒険者としてもまだまだ駆け出しだ。

だからこそ、一歩ずつ、見苦しくても前に進まなきゃいけないんだな。」


「ええ…是非、アルスターさんにマティーニを美味しい、と言っていただけるように、私も腕を磨かなければなりませんね。」


申し訳なさそうにするマスターの顔を見て、アルスターは決心する。

そして、その決心を確かなものにするために…喉を焼くマティーニを、一気に飲み干す。


「あ!ダメです、そんな一気になんて!」


「ウ、ゲホッ、ゲホッ!」


慌ててまた水を飲み干し、口元を拭いながらアルスターは力強く応える。

「いや…大丈夫だ、これくらい。

オレは、思うような仕事が出来ずにいただけで腐っていた。

自分が情けないよ、マスター。」


マスターはもう一杯水を注いで、呆れたような顔でアルスターを見る。

「だからって…いけませんよ、アルスターさん。

強いお酒はゆっくりと飲まなければ。

次に同じことをなされたら、もう二度とアルスターさんにはお酒を出しませんよ。」


その顔は、どこか怒っているような、拗ねているような表情だった。

「プ…プッハハハ!

いや、マスター、すまなかった。

次からは気を付けるよ。


そうだ、これで帰る、という約束だったな。

お勘定、いいかい?」


しっかりとした手付きで、腰のベルトに結わい付けた財布をの紐を開け、銀貨を6枚。いつもの酒場なら、同じだけ飲んだとしてもこの半分だろう。


決して安い、というわけではない。

だが、アルスターにとってはその対価は当然――いや、その対価以上のものを手にしたという実感を感じていた。


「また来るよ、マスター。

ありがとう、美味かったよ。」


そう告げて、アルスターは少しだけふらついた足元で帰っていく。


「またのお越しを、心よりお待ちしております。」


そんなマスターの声を、背中で聞きながら。


アルスターの頭上には、瞬くような煌めきの星々が輝いていた。




ここは、何故か異世界に繋がってしまったバー。

Bar Polaris、そこは必ず無事に家に帰すことを約束する、特別な酒場。


――――――


レシピ紹介

ジン・フィズ

ゴードン・ドライ・ジン:30ml

フレッシュレモンジュース:15ml

シュガーシロップ:1tsp

ソーダ:適量

ジン、レモンジュース、シュガーシロップをシェイクして氷を入れたタンブラーグラスに注ぎ、ソーダで満たす。

軽くステア。

作者注:

まずはジンの代表的な銘柄、ゴードンを用いました。

ゴードンはコシが強く、シェイクにも耐えられることで世界中で人気です。

ただし、最近度数が下がり、世界中のバーテンダーがレシピの調整に四苦八苦しているとか。

これはゴードンに限らず、他のジンやスピリッツもその傾向が強いようです。


ジン・トニック

ボンベイ・サファイア:45ml

トニックウォーター:適量

氷を入れたタンブラーグラスにボンベイ・サファイアを注ぎ、トニックウォーターで満たす。カットライムを搾り、軽くステア。

作者注:

ドライ・ジンの中でも、華やかな香りとボタニカルな味わいで人気のボンベイ・サファイアをジン・トニックに。

ドライ・ジンとは思えないほど柔らかな口当たりです。

その分コシが弱いとされ、シェイクに用いるのにはコツが必要になります。

バーテンダーにとってはジンというスピリッツの奥深さを教えてくれる、最初の一本になるかも知れません。


マティーニ

プリマス・ジン:50ml

ドラン・シャンベリー・ドライ:10ml

ステアしてカクテルグラスに注ぎ、カクテルピンに刺したオリーブ(今作ではスタッフドオリーブ)をゆっくりと沈める。最後にレモンピール。

ドライ・ジンではかなりクセが強くなるため、フレーバードウオッカのような柔らかな口当たりのプリマス・ジンと、天然の高山植物を中心に伝統的なレシピで作られる華やかさを感じるドライ・ベルモットを合わせました。

比較的飲みやすいレシピですが、これでも35度程度にはなるでしょうか。

作中のアルスターの反応はまだマシかも知れません。

あと、アルスターがしたような一気飲みは絶対にダメです。



いずれのカクテルも実際に作り、官能チェックをしておりますが、味の感じ方には飲酒耐性や飲酒経験、飲酒時の体調、嗜好による個人差が明確に存在します。

是非試してみたいという時は、プロのバーテンダーと相談しながら、ご自身に合わせて無理のない範囲で楽しんでください。

合わないものを無理に飲んでも楽しいとは思えません。

それが、お酒の世界の奥深さでもあり、自分の好みを見つけていくという楽しさでもあります。


最後になりますが、本作中における飲酒量は厚労省が薦める一日当たりの適性飲酒量を超える描写となっております。

本作では「もし初心者に、無理のない範囲でマティーニを薦めるならどうなるか」を前提に組み立てている物語です。

本飲酒量を肯定するものでは決してありません。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

バー実務から見た酒の提供表現案 @diana_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る