第10話:白い息の行方

ロンドンの朝は、どこまでも白かった。 吐き出す息が白く濁り、テムズ川から這い上がってきた霧が、歴史ある街並みを幽霊のように包み込んでいる。


イングランド銀行の崩壊した地下室。かつて「聖域」と呼ばれたその場所で、エドワード・シンプソンは凍える指先にペンを握らせていた。 足元には、輝きを失い、ただの灰色の岩塊へと成り果てた「かつての黄金」が転がっている。価値という魂を抜かれたそれらは、今や建築資材の石材と何ら変わりはない。


だが、完全に終わったわけではなかった。 石の中に閉じ込められた「記憶」が、まだ微かな熱を持って蠢いている。それは、誰にも語られることなく葬り去られた、数千年の強欲と悲嘆の歴史だった。


「……聞こえるよ。お前たちの名前を、私が今、書き留めてやる」


エドワードは、目の前の石の表面に指を添えた。 ひんやりとした無機質な感触。しかし、目を閉じれば、指先からドクドクと「声」が流れ込んでくる。 それは、南米の鉱山で泥を啜りながら死んでいった少年の震える声。 大西洋を渡る船の中で、鎖に繋がれ、黄金の夢を見ることも許されなかった男の呻き。 そして、それらを「数字」として処理し、感情を殺して生きてきたロンドンの銀行員たちの、乾いた虚無。


エドワードは、それらすべてを紙の上に吐き出した。 ペン先が走り、インクが滲む。 「黄金の病」の正体は、物理的な呪いなどではなかった。それは、語られることのない叫びが、行き場を失って結晶化した「沈黙の重圧」だったのだ。


「エドワード様、まだそんなことを……」


アーサーが、魔法瓶に入った温かい紅茶を運んできた。 カップから立ち昇る湯気が、エドワードの強張った頬を優しく撫でる。ベルガモットの香りが、鉄錆びた地下の空気をわずかに和らげた。


「これは儀式なんだよ、アーサー。魔力を、ただの『記録』に変えるためのね」


「記録、ですか?」


「そう。人が歴史として読み、理解し、教訓として閉じ込めることができれば、それはもう人を支配する『怪物』にはなれない。名前を与えられた怪物は、ただの物語になるんだ」


エドワードは最後の一行を書き終えた。 その瞬間、地下室に溜まっていた重苦しい圧迫感が、不意に消えた。 まるで、長い間息を止めていた巨大な生き物が、ようやく深い溜息をついて眠りについたかのような静寂。


ふと、エドワードのスマートフォンの通知音が鳴った。 それはベネズエラのカルロスからの、一通のメッセージだった。


添付されていたのは、夜の街を映した、少し画質の荒い写真。 そこには、黄金の輝きではなく、ありふれた、だが力強い「電球の光」が灯っていた。


『エドワード。送電網が復旧した。子供たちの硬化も止まった。あの子たちは今、黄金の彫像としてではなく、泥だらけの人間として、街灯の下でサッカーをしているよ』


エドワードは、画面を見つめながら、深く、深く息を吐いた。 白く、温かな息が、冷え切った地下室の空気に溶けていく。 「価値」を失ったことで、皮肉にも世界は「命」を取り戻し始めたのだ。


数日後。 ロンドンの街は、相変わらずの灰色だった。 高級スーツに身を包んだビジネスマンたちが、消えた資産の混乱を鎮めるために血眼になって走り回り、新聞各紙は「史上最大の金融消失」という見出しを踊らせている。


エドワードは、厚手のコートの襟を立て、スレッドニードル通りを歩いていた。 イングランド銀行の正面玄関。 かつては選ばれた者しか通れなかったその場所は、今や修復工事の足場に囲まれている。


銀行の門前に立つ、顔なじみの警備員、ウィリアムの姿が見えた。 彼はかつて、黄金の重圧に魂を縛られ、鉄板のような背中でエドワードを拒絶していた男だ。


エドワードがその横を通り過ぎようとした、その時だった。


ウィリアムが、ゆっくりと、だが確かに視線をエドワードに向けた。 彼の瞳には、かつての琥珀色の濁りはない。ただの、少し疲れた年老いた男の、穏やかな光が宿っていた。


ウィリアムは無言のまま、帽子に手をかけ、小さく会釈をした。


それは、組織のルールでも、礼儀作法でもない。 一人の人間が、地獄を共に見たもう一人の人間に対して送る、静かな敬意の証だった。


エドワードは一瞬足を止め、同じように小さく頷き返した。 言葉は必要なかった。 二人の間を、冷たい冬の風が吹き抜けていく。


「さて……」


エドワードは、灰色の空を見上げた。 雲の切れ間から、ほんのわずかだけ、本物の太陽の光が差している。 それは、誰にも所有されることのない、すべての者に平等に降り注ぐ、ただの光だった。


彼はポケットの中で、あの老女の金貨の「石になった破片」を転がした。 それはもう輝かない。けれど、握りしめると、確かな人間の体温で温かかった。


エドワード・シンプソンは、霧の向こうへと歩き出す。 背後で、ロンドンの街の騒がしい鼓動が聞こえてくる。 それはもはや黄金の拍動ではない。 不完全で、騒々しく、そして愛おしい、生身の人間たちの営みの音だった。


(完)


エドワードの物語はここで幕を閉じます。黄金の魔力から解放された世界で、彼はまた新しい「人の声」を聴く旅に出るのかもしれません。


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