第9話:正義の顔をした怪物

ロンドンの空は、もはや雨を降らせるのをやめていた。 代わりに出現したのは、空を埋め尽くす「黄金のオーロラ」だ。それは美しくも禍々しく、ロンドンの街の輪郭を歪ませ、建物の影を異常なほど長く伸ばしていた。


イングランド銀行の崩壊した吹き抜け、その中心に、それは立っていた。


「……あれが、すべての結末か」


エドワードの声は、乾燥した喉を通り、カサついた音となって消えた。 そこにいたのは、ヴォーンでも、ただの金塊でもなかった。 それは、数世紀にわたるロンドンの傲慢な「秩序」を骨格とし、ベネズエラの地底で呻いていた「呪い」を肉体とした、異形の神だった。 巨体の半分は、ロンドン塔を思わせる冷徹な灰色の石造り。もう半分は、少年の肌を突き破って咲いた、あの毒々しい黄金の結晶。その顔には、数千、数万の人々の「渇望」と「絶望」が交互に浮かび上がり、目からは溶けた金が涙のように溢れている。


『エドワード……選べ。この均衡の秤を、どちらに傾けるか』


怪物の声が響くたび、足元の石畳が金に変わり、同時にエドワードの脳裏にベネズエラの熱風が吹き荒れた。 五感が混濁する。 ロンドンの高級な葉巻の香りと、現地の泥に混じった血の匂い。 テムズ川の湿り気と、干上がった大地が発する死の吐息。


『この黄金をすべてベネズエラに還せば、この街の「信用」は消滅し、ロンドンは一晩で瓦礫の山となるだろう。だが、還さなければ、彼の地の子供たちは一人残らず、呼吸する黄金の彫像となって砕け散る』


怪物の右手が、ロンドンの金融街を指し示す。そこには、混乱の中でまだ自分の資産を守ろうと狂奔する市民たちがいる。 怪物の左手が、虚空に映し出したのは、カルロスの腕の中で、皮膚が金属に変わる痛みに耐えかねて泣き叫ぶ少女の姿だった。


「どちらかを殺せと言うのか……!」


エドワードは、震える手で「逆位の術式」が刻まれた羊皮紙を握りしめた。 だが、その紙さえも、怪物の放つ圧倒的な「富の質量」の前に、羽虫のように軽く、頼りない。 肺の奥が焼けるように熱い。黄金の微粒子が、彼の意識を内側から「物質」へと変えようとしている。


「エドワード様! 選んではいけません!」


背後でアーサーが叫んだ。 「どちらかを選ぶことは、奴の土俵に乗ることです! どちらを選んでも、黄金の呪いは消えない!」


『黙れ、歯車が』 怪物が一喝すると、アーサーは衝撃波で吹き飛ばされた。 怪物はゆっくりとエドワードに顔を近づける。その瞳の中に、エドワードは自分の醜い欲望を見た。――すべてを終わらせて楽になりたい、ヒーローとして死にたい、あるいは、この巨大な力を手に入れたい。


『正義など、分配の計算に過ぎない。さあ、どちらに価値を置く? 1千万人の文明か、1万人の命か。数字を言え』


エドワードは、地面に膝をついた。 指先が、再び黄金に染まっていく。 感覚が消えゆく中で、彼は思い出した。あの老女の金貨。紙袋よりも軽かった、あの一枚。 あれは、ロンドンの「富」でもなければ、ベネズエラの「呪い」でもなかった。 ただ、「誰かを想って使われる」という、ただの「交換の意思」だった。


「……ヴォーンも、お前も、間違っている」


エドワードは、喉に詰まった黄金の砂を吐き出すようにして言った。


「金は、実体じゃない。それはただの、約束だ。誰かが誰かを信じるという、形のない契約だ。お前たちはその『形』に固執しすぎたんだ」


『何を……?』


「俺は、どちらも選ばない」


エドワードは立ち上がった。 右手の石化は、もはや肘まで達している。だが、彼はその重みを利用して、自分の胸を強く叩いた。


「この黄金を、ロンドンにも、ベネズエラにも返さない。……『無』に帰す。価値という概念そのものを、一度壊すんだ」


『正気か! 世界中の信用が、紙屑になるぞ!』


「紙屑になれば、また一から始めればいい。泥にまみれて、誰かのために汗を流すところからな!」


エドワードは、術式の羊皮紙を口に咥え、両手で怪物の「黄金の心臓」――ロンドンの傲慢とベネズエラの悲劇が、最も濃く混ざり合った「核」へと飛び込んだ。


視界が真っ白な光に包まれる。 耳を貫くのは、貨幣がぶつかり合う音ではなく、静かな、ただの風の音。 鼻を突く金属臭が消え、ただの土の、ただの水の匂いが戻ってくる。


「これが、第3の選択だ……。黄金を、ただの石ころに戻す!」


エドワードは、術式を逆回転させた。 奪うための価値でもなく、救うための対価でもない。 黄金を、価値を宿す前の「ただの物質」へと還元する、究極の脱価値化。


『ぐ、あああああッ! 価値が……意味が……消えていく……!』


怪物の巨大な体が、ボロボロと崩れ始めた。 黄金の結晶は輝きを失い、ただの茶褐色の石に変わる。 ロンドンの空を舞っていた黄金のオーロラは、ただの薄汚れた霧へと霧散していった。


静寂が、ロンドンを包み込んだ。


イングランド銀行の跡地に立っていたのは、ボロを纏った一人の男――エドワードだった。 彼の右手は、幸いにも元の皮膚の色に戻っていた。だが、指先には深い火傷のような痕が刻まれている。


世界中の銀行のモニターから、数字が消えた。 金庫に眠っていた金塊は、すべてただの鉄屑以下の「重い石」へと変貌した。 それは世界的な大恐慌の始まりだった。しかし、同時に、ベネズエラの少年たちの体からも、黄金の鱗が剥がれ落ちていた。


「エドワード様……」


アーサーが、瓦礫の中から這い出してきた。 彼は、手の中に残った「石ころ」を見つめ、苦笑した。


「本当に、全部ただの石にしちゃったんですね。……明日から、どうやってパンを買えばいいんでしょう」


「自分の手で働いて、誰かに『ありがとう』と言わせるんだな。それが、新しい通貨だ」


エドワードは、遠く東の空が白んでくるのを見つめた。 黄金の輝きがない、ただの灰色の、だが希望に満ちた夜明け。


彼はポケットから、最後の一片――砕けた老女の金貨の破片を取り出した。 それは石には変わっていなかった。 なぜなら、それは最初から「富」としてではなく、「愛」として存在していたからだ。


「さあ、行こう。ロンドンの瓦礫を片付けて、ベネズエラに麦の種を送りに行かなきゃならない」


エドワード・シンプソンは、二度と黄金色に輝くことのない街へと、一歩を踏み出した。 その足取りは、かつてないほどに軽やかだった。


(完)


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