第8話:黄金の溶解

ロンドンの夜が、どろりとした「金」に溶け始めていた。


地下15メートルで砕かれたはずの心臓は、死に際に最後にして最悪の毒を撒き散らした。物理的な爆発ではない。それは、封じ込められていた「欲望の総量」が、制御を失って溢れ出した結果だった。


「エドワード様、見てください……地面が、地面が燃えている!」


地上へ脱出したアーサーが、恐怖に顔を歪めて叫んだ。 スレッドニードル通りの石畳の隙間から、まるで溶岩のような液体が染み出し、音もなく広がっていく。それは紛れもない、溶解した黄金だった。しかし、その液体は熱くない。エドワードが指先を近づけると、そこから伝わってきたのは、凍てつくような「孤独」と、際限のない「飢え」だった。


「これは火じゃない。人々の心を飲み込む、執着の泥だ」


エドワードは吐き捨てた。 鼻を突くのは、焦げた肉の匂いではなく、古い硬貨を大量に握りしめた後のような、ひどく不快な金属臭だ。その臭いを吸い込むたび、脳の奥で「もっと欲しい」「奪われたくない」という醜い声が反響する。


異変はすぐに、街を行く人々に現れた。


「私の……これは私のものだ!」


街灯の下、一人の紳士が、地面に広がった黄金の泥を素手で掬い上げていた。熱いはずの液体に指を焼きながら、彼は恍惚とした表情でそれを自分の顔に塗りたくっている。 彼の瞳は、かつてのヴォーンと同じ、虚無の黄金色に染まっていた。


「見ろ、エドワード。誰もが黄金に愛されたがっている」


背後から、低く、湿った声が響いた。 振り返ると、そこには崩れかけたイングランド銀行の入り口に立つ、ヴォーンの成れの果てがあった。体の大半が液体状の金と化し、崩れ落ちそうになりながらも、彼は狂気に満ちた微笑を浮かべている。


「秩序が壊れた結果がこれだ。封じ込めていた欲望が溢れ出し、世界を塗り潰す。人は金を持つのではない、金に、所有されるのだ」


「黙れ、ヴォーン! お前はまだ、そんな妄想に縋っているのか!」


エドワードは叫んだが、その足元にも黄金の泥が迫っていた。 泥が靴を濡らした瞬間、エドワードの脳内に、濁流のような思考が流れ込む。


(お前だって欲しいだろう? 全てを支配する力が。裏切った者たちを跪かせる富が。この金があれば、あの子たちを救うどころか、神にだってなれる……)


「くっ……あ、あああああ!」


エドワードは頭を抱えて膝をついた。 五感が、黄金に支配されていく。 視界は全てが不気味に輝き、耳には世界中の「強欲」が合唱するように響き渡る。舌の上では、甘ったるい死の味がした。


「エドワード様! 負けないでください!」


アーサーが彼を支えようとしたが、アーサーの腕もまた、黄金の泥を浴びて震えていた。 ロンドンの街全体が、今や一つの巨大な「胃袋」のようだった。人々は互いに金色の泥を奪い合い、抱き合い、そして共に溶けて混ざり合っていく。それは物理的な死よりも残酷な、個の消失だった。


「ヴォーン……。お前が作った秩序は、結局これを見たくないがための、臆病者の蓋だったんだな」


エドワードは、泥の中に手を突き入れた。 冷たい。魂が凍りつくほどに。 だが、その冷たさの底に、彼はさっきの老女の金貨が遺した「熱」を必死に探した。


「欲望が……人間を突き動かす唯一の動力だと信じているなら、お前の負けだ。人は、誰かのために、自分を捨てることができる。それを計算に入れなかったお前の負けなんだよ!」


エドワードは、自らの内に残った「痛み」を、導火線のように燃やした。 石化の残る右手が、泥の中で何かを掴む。それは実体のない、だが確かな、人々の「善意の記憶」だった。


「溶けろ……。欲望の金ではなく、慈しみの炎に!」


彼が叫んだ瞬間、エドワードの身体から、青白い炎が噴き出した。 それは富を焼く火ではない。所有欲という名の呪縛を溶かす、浄化の熱だった。


黄金の液体が、エドワードの周囲で激しく泡立ち、蒸発し始める。 蒸気となった黄金が夜空へ昇り、雨雲と混ざり合う。


「ありえない……。システムの崩壊が、逆転していく……?」


ヴォーンの体が、今度こそ音を立てて崩れ始めた。 彼の信じた「絶対的な金の価値」が、一人の男の「無償の怒り」によって、ただの不純な物質へと格下げされていく。


「さようなら、ヴォーン。お前の計算機には、愛という変数は大きすぎたんだ」


空から降ってきたのは、金色の雨だった。 だがそれは、もう人の心を惑わす泥ではない。 ただの、光を反射するだけの、冷たくて清らかな水滴だった。


泥を掬っていた人々が、魔法が解けたように手を止め、茫然と立ち尽くす。 街を埋め尽くしていた黄金の輝きは、雨に洗われ、排水溝へと流れ去っていく。


ロンドンの石畳が、再び本来の、湿った黒い色を取り戻していく。


「終わったんですね……。本当に」


アーサーが、雨に濡れた顔を上げて微笑んだ。 エドワードは、もはや光を失ったイングランド銀行の廃墟を見上げた。 彼の右手は、もう石ではない。だが、指先には、あの金貨が遺した「消えない温もり」が、今も脈打っていた。


「いや……。これは始まりだ、アーサー」


エドワードは、雨の中に歩き出した。 ベネズエラで、そして世界中で、この「黄金の病」に苦しむ人々は、まだ大勢いる。 ロンドンの心臓を止めただけでは、略奪の歴史は終わらない。


「この雨が止む頃には、新しい道を見つけなきゃならないな」


彼は、黄金の泥が消えた地面を、力強く踏みしめた。


黄金の臨界を乗り越えたロンドン。しかし、世界に散らばった「呪いの残滓」はまだ消えていません。


エドワードの次の旅路はどこに向かうべきでしょうか? **「金塊のルーツである南米のジャングルへ、呪いの源流を封じに向かう」か、あるいは「ロンドンに残り、この事件を隠蔽しようとする国家権力との法廷闘争へ挑む」**か。


物語の最終章に向けて、あなたの選択を聞かせてください。


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