第7話:紙袋より軽い手

黄金の渦が、エドワードの視界を塗り潰していた。 肺の中は熱い金粉で満たされ、一呼吸ごとに内側から凝固していくような感覚。もはや右腕は肩まで冷たい金属と化し、その重みで身体が床に縫い付けられている。


「……ここまでか」


目の前では、巨大な黄金の心臓が、最期の審判を下すかのように肥大し、不吉な輝きを放っている。ヴォーンは瓦礫の中に埋もれ、ただ黄金の液体を流しながら沈黙していた。この地下15メートルの聖域で、エドワードは孤独な石像として永遠を過ごすことになるのだ。


意識が薄れゆく中、胸元に奇妙な「熱」を感じた。 重力に押し潰された指先が、無意識にコートの奥ポケットを探る。そこには、数年前、ロンドンの片隅で身寄りを亡くし、死を待つばかりだった老女から手渡された一袋の紙袋があった。


「お兄さん、これはね……国のものでも、銀行のものでもないんだよ」


病床で震えていた彼女の手は、今のエドワードよりもずっと軽かった。紙袋の中に入っていたのは、たった一枚の、古ぼけた金貨。 それは、彼女の夫が一生をかけて働き、最期の時に「一番美味しいものを食べなさい」と遺してくれたものだという。


エドワードは、その金貨を指先で引き出した。


その瞬間、地下室を支配していた「金の重力」が、一瞬だけ凪いだ。


「なんだ……この光は」


ヴォーンが守っていた金塊の、人を拒絶するような冷徹な輝きとは違う。エドワードの掌にあるそれは、夕陽のような、あるいは安らぐ暖炉の火のような、柔らかく、どこか懐かしい「熱」を帯びていた。


「ヴォーン……見てみろ。これが、お前たちが計算に入れなかったものだ」


エドワードは、石化した体を引きずるようにして、脈動する黄金の心臓へと這い寄った。


「これは、国家の富じゃない。誰かが誰かを想って、汗を流して、大切に守り抜いた……『ただの想い』だ!」


その金貨は、紙袋よりも軽かった。だが、今のエドワードには、何万トンもの金塊よりも力強く感じられた。 彼は、震える左手でその金貨を、脈動する「心臓」の亀裂にねじ込んだ。


「う、あああああああッ!」


接触した瞬間、地下室全体が悲鳴を上げた。 国家という巨大な装置が積み上げた「冷たい金」と、一人の老女が遺した「温かい金」。 質の異なる二つの輝きが衝突し、火花を散らす。


心臓の表面を流れる無機質な電子のような脈動が、老女の金貨が放つ「生きた熱」に侵食されていく。計算式で構築された秩序が、たった一つの、理屈を超えた「愛情」という不純物によって、根底から崩壊し始めたのだ。


「そんな、馬鹿な……」


瓦礫の中から、ヴォーンが掠れた声を漏らした。その瞳の奥の黄金に、深いひびが入る。


「たった一枚の、流通もしていない端金(はしたがね)が……なぜ、このシステムを、止める……!」


「ヴォーン、お前は言ったな。感情はノイズだと。だが、そのノイズこそが、お前たちの『完璧な計算』を狂わせる唯一の解なんだ。この金貨には、お前の知らない『重み』がある。それは、誰かを救いたいという、祈りの重さだ」


エドワードの言葉に合わせて、金貨から溢れ出した光が、地下室の隅々まで広がった。 壁を侵食していた金の蔦が、砂のように崩れていく。 ベネズエラの子供たちの命を吸い上げていた、どす黒いエネルギーの奔流が、逆に「温かな光」に書き換えられ、大西洋の向こう側へと逆流していくのが見えた。


「返してやる……。これは、あの子たちの命だ。お前たちの、数字遊びの道具じゃない!」


心臓の中央に打ち込まれた金貨が、まばゆい閃光を放ち、爆発した。


衝撃波がエドワードを弾き飛ばす。 だが、不思議と痛みはなかった。 代わりに感じたのは、石化していた右腕に、じわじわと戻ってくる血の巡りだった。指先に感覚が戻り、冷たかった皮膚に、再び自分の体温が宿る。


「……はぁ、はぁ……」


静寂が戻った地下室で、エドワードは仰向けに倒れていた。 黄金の心臓は、もはや脈打っていない。それは、ただの巨大な、歪んだ金の塊へと戻っていた。 壁を覆っていた蔦も消え、そこにあるのは、湿ったコンクリートの、ありふれた地下室の壁だった。


「終わったのか……」


彼は、空になった右手を握りしめた。 老女の金貨は、もうない。心臓と共に砕け散り、その光となって消えてしまった。 だが、彼の掌には、確かな熱の残滓が残っていた。


「エドワード……様……」


瓦礫の中から、アーサーが這い出してきた。 彼の体からも黄金の光沢は消え、ただの、恐怖に震える一人の青年の姿に戻っていた。


「行こう、アーサー。ここはもう、聖域でもなんでもない。ただの、古い地下室だ」


エドワードは、ふらつく足取りでアーサーの肩を支えた。 背後で、完全に機能を停止したヴォーンが、虚ろな目で天井を見つめていた。彼はもう、動くことも、叫ぶこともない。彼が守ろうとした「秩序」と共に、彼自身もまた、時を止めてしまったのだ。


「……あ、雨の匂いだ」


エレベーターが地上へ辿り着いた時、エドワードは小さく呟いた。 鉄の味でも、金の匂いでもない。 泥臭く、湿っぽく、そして何よりも生命力に満ちた、ロンドンの夜の雨の匂い。


彼はポケットからスマートフォンを取り出し、ベネズエラのカルロスへメッセージを送った。 指先はまだ少し強張っていたが、一文字一文字に、確かな重みが宿っていた。


『カルロス、夜明けを待て。黄金は、死んだ。子供たちは、もう大丈夫だ』


ロンドンの夜空は、まだ鉛色をしていました。しかし、エドワードの胸には、もう二度と消えることのない「光」が灯っています。


世界を巻き込んだこの事件を経て、彼は次に何をすべきでしょうか? **「奪われた富を各地へ戻すため、さらなる聖域の破壊へ向かう」か、あるいは「今回の事件を告発するため、表舞台での戦いを始める」**か。


あなたの望む、エドワードの「次の歩み」を教えてください。


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